2007.4.4 【サクラ】

桜が咲いた。
花見をした。
まったく通常の人間の生活だ。
そう、僕は正常な人間、変わった男ではない。
いや少しくらいは変わったところもあるが、人の道を踏み外すほどではない。
花見をしてどうしていけないというのだ!

それはいいとして、今日はサクラソングの話題。

最近サクラソングというのが多い。僕の嫌いなアンジェラ・○キの曲がヒットしている。
クリスマス・ソングみたいに、日本ではこの季節をうまく利用した音楽業界の戦略が目につく。
TサクラUTサ〜クラUTサク〜ラUTサ〜ク〜ラU
いずれもこのフレーズでうまくやればいいのだ。
そこにうまく“別れ”や“出会い”のエッセンスを入れる。
コマーシャルやドラマに乗せれば完璧。
流行歌なんてそんなもんだ。

ところでクリスマスソングとサクラソングは似ているところがある。
クリスマスソングは年末、サクラソングは年度末、共に“末”という決算時期だ。
“最後に一儲け”で帳尻合わせ。
つまりやけに“末”に道路工事が多い建設業界と音楽業界は同じということだ。

音楽業界で言えばバレンタインデーなんかもビジネスチャンスだと思うのに、いまだにオニャンコクラブの「バレンタインデー・キッス」しかないのは、この“末”ではないからなのだ。

9月末決算に向かって何かあればいいのだが、せいぜい運動会くらい?
それでもうまくやれば儲かるかも・・。

“大玉ころがしの君のほほ〜えみ”
・・・・ヒットしないな。

 

2007.3.15 【夢】

今日夢を見た。
随分と長編の夢。
かなりの傑作だった。
カンヌでパルムドール賞をとれるくらい。
ツタヤの「心に残るミニシアター」のコーナーに並ぶほどだ

最近こういった感動作の長編の夢をよくみる(観る?)。
今朝の何かの番組の情報によると、人間は死ぬまでに《4年半夢を見ている》らしい。
しかしほとんどのみているのは駄作。
おすぎにけちょんけちょんに言われてしまう。
今日みたいな感動の名作はなかなか珍しい。
レンタルしたいくらいだ。

 

2007.3.9 【ひとくち杏仁】

さて、世の中は松坂投手の活躍の話題と《ラーメンの後に何で口直しをするか》という話でもちきりだ。
前回1本の「かりんとう」という提案をしたが、ラーメンは中華という流れを持つ食べ物ゆえ、ここはやっぱり「杏仁豆腐」だ。

しかしそれを注文すると、幾らか払わなくてはいけないし、例え無料サービスだとしても、男が1人で、
「杏仁豆腐まだ〜」
と、スプーンをくわえて(レンゲでもいいが)待っているビジネスマンも格好悪い。

しかももともとファーストフード的なラーメン屋から言って、店の回転もおそくなるし、ここはやっぱりファースト、クイックリーな方がいい。

ということで杏仁豆腐のこんなスタイルはどうだろう。

 ほぼ原寸。「蒟蒻畑」くらいの大きさ

店の勘定するときに、
「一口アンニンどうぞ」
とアルバイトのお姉さんに渡される。

片手でぐぐっとアフターアンニン!

断然人気が上がってくることは間違いない。

 

2007.3.1 【ラーメンその後・・】

とカッコイイタイトルをつけたが(カッコよくもないか)、要するにラーメンを食べた後の口直しに、何を食べるかが問題だ!(問題でもないか・・)

ご存じのようにラーメンはしょっぱい。
しょっぱいラーメンでなくとも、そこそこラーメンには塩分がある。
後味を愉しむというよりは、早くそのしょっぱさを消したい。
もう食ったものは過去のこと。過去の事は早くおさらば。それが前向きな人生というものだ。
要するに、ラーメンの後に相応しいちょっとしたデザートはないもんか、ということである。

僕はラーメンを食べた後、缶コーヒーの時も多いが、よくコンビニに行って一口サイズのチョコレートを買う。
と言っても、いい年こいて「チロル・チョコレート」は買いにくいので(せこい人間に思われるので)、最近多く出ている《小さめの小袋に入った100円くらいのやつ》を買う。
これは口の中のしょっぱさが消え、食欲もそれで治まる。しかもちょっとお上品なお味。
まさしく僕のような“ラーメン食った男”をターゲットにしているのではないか!

いやそうじゃなくても、タバコをやめた男たちが、最近おやつの時間をつくって食べたり、こうやって食事のあとのデザートとしてはちょうどいい。 このサイズと値段は、確かに的を射ている優れた商品だ。

一方、これまで口直しは、ガムであったり、飴であったり、レジ横やお釣りと一緒にくれたりしていた。
無料でというのが嬉しいのだが、これまでは比較的単価の高い、焼き肉屋さんで多かった。

そこでだ。
ラーメン屋さんにもそういった無料サービスを期待をしてもいいのではないだろうか。
いやしょっぱいものを出す店として、むしろこれは責任だ!!(ちょっといいがかり)

それで、これまでと同じようでは面白くないので、一風変わったものがいい。
「かりんとう」ってどうだろう。
それも小さい袋に1本だけ。
黒糖の健康的甘さ。まさしく伝統的自然食品!
きっと店のイメージアップにも繋がると思うのだが。。。

 

2007.2.12 【メントール】

そろそろ花粉のシーズンだ。
僕は、いつの間にかこのアレルギーの仲間に入っていた。
この時期はマスクは勿論のこと、目薬、鼻スプレー、鼻炎薬は必須。
ゆえにドラッグストアに足を運ぶことになる。

ドラッグストアではポイント3倍の日に一気に購入するのが正しい。
それがインテリジェンスな消費者というものだ。

さてこういったクスリ関係を購入する際、考えることがある。
「・・・クール」という表示のクスリ。
そもそも我々の回りにはなんとメントールの多いことか。

日本人は大抵朝歯を磨く。もうここからメントールの始まりだ。
肩こりである僕は肩にバンテリンを塗る。これもメントール。
ガムを噛む。これもメントール。
シェービングクリーム。これもメントール。
アフターシェーブローション。これもメントール。
ヘアトニック。これもメントール。
沖縄に行く。それはメンソーレ。

とにかく塗り薬から入浴剤、化粧品、食品にいたるまで、絶えずこのクールなものと付き合っている。
今ではたばこはやめたが、13年前までたばこもメントールをたまに吸っていた。
その際、メントール系の煙草を吸うとインポになるという噂があった。
どうも興奮曲線が一致するというのが理由らしい。
その真意は分からないが、目薬とか鼻スプレーとか、あまり身体にメントールばかり吸収していると、メントール人間になるかもしれない。
きっと心の冷たい人間になってしまう。

クールはほどほどにしよう。

 

2007.1.31 【今年はパリ】

今年はなんとなくパリな年にしよう。
僕の中で今年は「国際パリ年」だ。

パリと言えばとっくりセーター。
パリジャンはとっくりセーター。
とっくり決まっている。

とりあえず毎日とっくりを着よう。
夏でもとっくり。寝るときもとっくり。
毎日とっくりで呑もう。

音楽はレーモン・ルフェーブル。
そして、おしゃれで知的なお話。
映画なんかの、 クククク・・
それで行こ、それで行こ。

はい、今年はパリ。


2007.1.14 【龍安寺の石庭はラーメン】

以前多摩美大の受験の出題で小論文があり、テーマが「龍安寺の石庭について」というのがあった。受験指導の仕事をしている立場だったので、そのことはよく憶えている。
そこでの模範的な小論文が、どういうものだったのか、今書くような文が果たしていい点がもらたかどうか、果たして入学を許可してもらえるものかどうか、分からないけれども、今は堂々と書くことにする。
本日のテーマは『龍安寺の石庭はラーメン』

龍安寺 公式HP
龍安寺と言えば、京都に修学旅行に行けば、必ず通るところ。
僕は修学旅行で2回(?)、個人旅行で3〜4回(?)、大学の古美術研修で行ったか、行かなかったか(?)、ああ憶えてない。
そこに記憶しているのは《小さな石ころで出来た庭》。

その小さな石ころに、熊手か何かで、“うそっぱちの水”みたいな線が描いてあって、
「はい、これは水の庭です。 えっ何か?」
と言っているような。
人をおちょくったような庭。

思わずそこを手でむちゃくちゃにして、卑猥な絵でも描いてやろうかと思うくらいだけれど、なかなかそんなことはできない。本当にそんな事をしたら、和尚さんに叱られるし、引率の先生にも叱られるし、ソリコミを入れた“相当な悪”でもそこまでする勇気はない。

しかし誰しも本当は《むちゃくちゃにしたるぞ、ほんまに!》といった気持ちがあり、実は心の中でそんな邪悪な心と対話する、あるいは“問答”すること自体に、これの《正式な見方》と《本質》があるのかも知れない。

ところでこの龍安寺の石庭の“線”形状、どこかで観たことはないだろうか。
そう、ラーメンである。

それは熊本トンコツの『ターロー麺』。
「虎の子渡し」と言われる石の組み方は、ちょうど熊本トンコツラーメンのターロー(太肉角煮)に似ているし、その回りにある土は「マー油」、思わずキャベツもトッピングしたくなる。

人間は“線”という領域をもって、その造形物を理解しようとすることをこれまでにも書いてきた。note13
そしてここにもまた、石ころという領域を“線”としてラーメン化し、小宇宙を築き上げている。
室町時代の感性も「なんつっ亭」と同じっつーこった

 

2006.12.18 
【市川 浩『<私さがし>と<世界さがし>身体芸術論序説』
と映画『隠された記憶』】

以前僕の個展で峯村敏明氏(評論家)と話した時、「芸術家は哲学を学ばなければならない」と言っていたが、そういうものに入り込むと、なんだかもっと“やっかいなことになる”ような気がして、なるべく遠ざかってきた。
しかしここにきて、そのやっかいな哲学っぽい話をしてみたくなった。

そのきっかけは哲学者・市川浩著『<私さがし>と<世界さがし>身体芸術論序説』という本と、それと同じタイミングで、映画『隠された記憶』を観たことである。

市川浩という人は哲学者であるが、人類学から芸術・建築、また寺山修司に及ぶ、広範囲な見識の持ち主だ。
今回の『<私さがし>〜』ではとても興味深いものがあった。

中でも「身体・家・都市・宇宙」の身体の「インテリア・エクステリア」の部分で、《内部》と《外部》の対立と交錯を、を身体の胎児の位置から、建築、更に宇宙へ、それらの質的特性などを述べている。

例えばギリシャ神殿は外部空間の建築で、キリスト教会は内部空間の建築。ギリシャ神殿が外から礼拝するのに対し、迫害時代、カタコンベで開かれた信徒集会の歴史をもつキリスト教会は、ステンドグラス天上画など胎内的「内」的空間が強いということ。

その《内》と《外》の対立・交錯を、あるいは統合を、少々複雑な表現ではあるが、現実的統合、潜在的統合、可能的統合の3つの交錯する錯綜体Implexeをキーワードに示そうとしている。

僕は偶然に、この少々難解な部分を、たまたま観た 映画『隠された記憶』で具体化してくれたかのように思えた。

この映画は、去年度公開の作品で、この市川氏の論文を出版した時期とは大きくずれていて、特に直接的な接点はないように思う。しかし監督のミヒャエル・ハネケはウイーン大学の哲学科出身という経歴から、同じようなベースであることは考えられなくもない。

各映画賞を総なめにするくらい批評家の中では評判の良い『隠された記憶』であるが、ネットで探ってみると、必ずしもいい評価ではない。

それはデビット・リンチの『マルホランド・ドライブ』であるように、またロシア映画、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の『父帰る』などのように、“答えの曖昧”な、あるいは最終的に“答えを観る側に依存”させるようなものは、観る者のサスペンスという命題に、一種はぐらかされたような不満を持つ人が少なくはないからである。

通常アメリカ映画に慣れた人は「〜デビット・ゲイル」のように、最後ケビン・スペーシーみたいな男が犯人であると納得がいく。
でも残念ながらこれはアメリカ映画ではない。

一方で、この映画が評価を得た理由として、フランスの持つアルジェリア移民へのトラウマ、民族の抱える“フロイト分野”がそれを支えているのは大きい。日本のアジアに対する過去の汚点のように。。。
(息子の部屋にあったジタン のポスターが今年ワールドカップでの頭突きを予言しているようで怖い)

しかしこれだけではなく、僕が注目したいのは、先にもふれた《内》と《外》である。

実際に固定カメラで客観的に映し出されるテレビキャスター、ジョルジュの家。
それを映したストーカーらしき犯人がビデオ・テープを送りつけ、たびたび差し出されるビデオに、家の内側では、ジョルジュや家族に恐怖やいらだちを憶えてくる。

明らかに映像的にも《内》と《外》を区分けして両方の視点から話は進み、精神的にも《内》と《外》の間で揺れる。

象徴的なのは主人公のブルジョア的インテリア。
ガラスのダイニングテーブルを囲む、やけに多い本の多い書棚。
これは外部と内部を結ぶ《インテリジェンスという社会性のステンドグラス》に見える。
キャスターとしてのスタジオのセットにも、この書棚のような絵がかかれてある。

これに比べ、ジョルジュが犯人と疑ったアルジェリア人の部屋は、あまりにも質素な《内》側である。
観客はこの時点でアルジェリア人の身方になっていく。

そして問題の最後の驚愕のラストシーンといわれるところ。
犯人がわかるかとおもいきや、脅迫に使われたビデオ映像と同様、固定カメラからの客観的な《外》からの映像。
実はここが仕掛け、ここがキモなのだ。

犯人の視線と観客の同化、それまで映画の外側にいた者が一気にシンクロナイズする。
つまりこうだ。

それは犯人は第三者であって、それは神とも言えるし、同一化した《我々自体が犯人》だということ 。
それは原罪をもつ全ての人々のこと。

どうだろう、この解釈。
けっこうまっとうであると思うのだが。。。

観た人意見求む。

 

2006.12.10 【ラップが好きではない】

僕はR&Bは好きなのだが、どうもラップというのは好きにはならない。
新しいものを聴こうとし、いくつか試したりしたがいつもピンと来ない。

最初は英語が分からないというのが理由か思っていが、日本語のラップもやっぱり駄目なようだ。
まだ許せるかと思っていた「sould'out」でも、シングル1曲くらいならよいが、アルバム全部をきくとやっぱり辛い。
15分ももたない。

じゃあなぜ、ラップがこんなにも苦手なのか。
それはもしかしてその音楽の形、あるいは音楽の“次元”に問題があるのではないか。

以前に考えたもので、このnote13にも記した仮説だが、「デッサンとラーメン」、「ラーメンとギター」が似ているというところ。それは共に《「線」という一次元化により一致する》というものであった。

つまりそれは線状のものに異化した状態で判断し易い物にすること、すなわち、複雑で様々なクオリティを体系化するのに一番都合がよいのが、この1本の《麺》だということである。

ではここでラップとはどういうものかと考えると、どうもこの線ではなく、“点”でありそうなのだ。

ラップは主に言葉という『点の羅列』である。
サンプリングされた元の音楽を張り合わせ、それを電子的に化合したリズムに、
「yo」「yo」「yo」「 チェケラッチョ」
というような単語を乗せていく。
[・] [・] [・] [・・・ ・]
これは明らかに“点”だ。

逆に線として形態を持つ、もっとも典型的な例はJ・S・バッハの「G線上のアリア」。
これはバイオリンの音が、時間軸に従って“線で展開していくイメージ”、さらにそれを楽器自体、すなわちバイオリンの構造の《G線》というハード(メディア?)に、アリアというイメージを展開している。[〜]
これはバッハが「線」という次元をはっきり意識していて、 そういう意味ではかなりのラーメン好きであったと考えられる。

しかしこのラップでは、あえて意図的にこの線という要素を崩し、再構成された点の固まりを理解していかなければならない。
ラーメン好きにとってはこれがとても辛いのだ。

「電子化合物的」に対する拒否反応も大きいかもしれないが、僕はやはりラーメンのような線[〜]でないとダメなようだ。

 

2006.11.26 【俳人:金子兜太講演会】

最近講演会をききに行く時、自分がいつか何かの講演をするための準備だと思ってきくようにしている。
言葉遣いや、間の取り方、「え〜〜」の入れ方など。

レッドソックスに行くことになりそうな松坂選手も、もう少し「え〜〜」の使い方、話し方を勉強した方がいいと思う。これからもっとインタビューされる機会が多くなりそうなんだから。

ところで今日は俳人の金子兜太さんの講演会に行って来た。
前衛俳句の旗手。 芸術院賞クラスのテレビや新聞でご活躍の立派な方が、よくもこんな家の近くの“コミセン”程度の所に来てくれたものだ。

内容は「憲法9条」についてのテーマだったが、彼は自分のおいたちや過去の戦争の体験が中心であった。
その中で、僕はひっかかったのは、自分の周りの人間の死に直面して、次第にアニミズムを意識していったというところ。

アニミズムというのは、一般に原始的な霊的存在への信仰で、のちに様々な宗教の萌芽する元になるものである。
人類学者タイラーが19世紀に唱えた説で、原始のものではあるが、後の大きく体系化される宗教(キリスト教やイスラム教、仏教etc)とは対極する意味を持つ。

それは全て“一人の神”のものというものとは区別され、全ての“もの”に対する霊的存在への信仰、しかもそれは“抽象的概念も含まれる”というところである。

僕はすぐに思ったのは、トム・ハンクス主演、ロバート・ゼメキス脚本の映画「キャスト・アウェイ」のあるシーン。
トム・ハンクスが飛行機事故で海に落ち、無人島に漂流し、流されてきたwilsonのボールに自分の血で顔を描き、友人のように崇めたというところ。 まさしくこれがアニミズムである。

人間がこのように自分の周りの人間や生き物、あるいは物;オブジェに魂があると考え、それを崇めることは、とても原始的だけれど、それは聖書やコーランで語ることと同等、あるいはもっとストレートに直結し、普遍性を持ったものであるのでないか。
そして金子兜太さんはそこまで言ってはいないが、この憲法9条という物体(ある意味抽象的概念)も、霊的崇拝に値する物;魂を持った物、それが今回の話の本質ではなかったのかのように思う。

それにしても金子兜太さんは1919年生まれの87歳。
とてもその年には見えないほど、背筋が通って、はつらつとしていている。
ああいう風に年をとりたい。

 

2006.11.21 【背の高いスポーツカー;スカイライン】

スカイライン、背水の12代目!

今日の朝日新聞の記事。
先日言ったとおり(2006.10.15 【背の低い車】)、最近のスカイラインは車高が高い。
そのことをを気にしてか(?)、今回スカイラインは車高を2cm下げ、車幅を2cm広げたらしい。

甘いな。
もう10cm下げなくては。

スーパーカーと比較してはいけないけど、スポーツカーは背が低くないと魅力がない。
(三菱のGTOも背が高いから、品がない)
なんで、車高を低くすることに日本車は臆病なのか!

ところで僕は、近くのホンダのカーデザイナーの一人にデッサンを教えている。
彼から次のACURAブランドのフラッグ・シップ(;多分、次世代NSX)の情報をききだそうとしているが、なかなか言ってはくれない。
彼はまだ若く、そのプロジェクトに参加しているわけではないが、あのスカイラインみたいな、“だっさ〜い”背の高い車に絶対しないでくれと、しつこく言ってある。

 

2006.11.19 【人 参】

僕は食べ物に対して、あまり好き嫌いはない。
「くさや」とかはさすがに苦手だが、たいていのものは食べられる。
しかし素材そのものは大丈夫でも、組み合わせが悪くて、いけない場合がある。
例えばラーメンに人参が入っているといけない。

そもそも人参は嫌いではない。
いや好きってほど好きではないが、たまにこういう色の食べ物も食べないとと思うから、食べる。
むしろ、人参が好き! っていう人の方が珍しい。

ところがラーメンにのせたらどうだろう。

そもそもラーメンは何でものせて食べられる、かなり対応力のある食べ物だ。
けれど人参を入れると、スープを濁してしまうおそれがある。

せっかくの出汁を汚して、スープをいじめてしまうのだ。
いじめはよくない!

そう、人参は危険だ。
あいつには注意しろ!

 

2006.11.13 【タランティーノをみた】

今日タランティーノをみた。
おそらく本物ではない。
なぜならそこが水道橋だからだ。

多分よく似ていたガイジンさんだと思う。

水道橋と言えば東京ドーム。
引退したが、元巨人の後藤選手が駅から来るところを見掛けたことがある。
電車で球場にやってくる野球選手は少ないが、彼ならその理由はわかる。

でもタランティーノ はどうだろう。
用事はないだろう、、、水道橋に。
仮に野球好きだとしても、今のドームは野球もやってないし、水道橋付近の美味しいラーメン屋さんを探しにきてたとも考えにくい。

それでも可能性があるのは、オタクで有名なタランティーノのこと、
神田の古本屋で昔のコミックをあさっていたり、お茶の水の中古レコード屋で廃盤のLPを捜していたり、、、、はたまたアキバに行こうとして、方向を間違えていたり、、、
そんな“流れ”であれば、この水道橋にたどり着くのも、考えられなくもない。

やっぱりタランティーノだったのか!

いや、きっと違う。

多分いるはずがない。

ところで最近彼の携わった『SIN CITY』を観て笑った。
乱暴な映画だ、相変わらず。

 

2006.11.6 【キャッチー】

ちょっと。。ちょっとちょっと!

ほんとうに面白いのかよくわからないが、双子の芸人からでるフレーズ。
このところ芸人がこぞってこのようなキャッチーな“決め言葉”で場をもたせる。
ちょっと前の、腰を振る「フォー」が使い捨てられるように、この「ちょっとちょっと」も、あともうちょっとなのか。

それはさておき、このようなキャッチーなフレーズは、よくもわるくも日本民族に届きやすい。
前の総理も“行政改革”だの何だの、この一連のキャッチフレーズのうまさから支持率を上げた。

日本ではこういった一連の“一発文句”、 もっと言えば、分かりやすい“一発のシンボリックなもの”が決め手なのだ。

本来それが本質とは限らない。
でも、日本で過ごすには、よくも悪くもそういったものを考えだすことが有効なことなのだ。

 

2006.11.5 【勉強になる】

「このエラーは、やっぱり若いプレイでしたね」
「そうですね、本人にとっちゃ、いい勉強になったんじゃないですか」

はい。野球の話です。
何らかのミスをして、勉強になる。

そんな意味では、僕はどれだけ勉強してきたことか。
勉強が身になってないっちゅうことか。。。

 

 

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