2006.2.24 【やっぱトゥーランドットの荒川】

やっぱり荒川が金メダルだったでしょ。
まあ、みんなそう感じてただろうけど。。。
確かに風は荒川に向いていた。

海外の批評の中で、欧州のスポーツ専門衛星放送「ユーロスポーツ」のコメンテーターによると、
[伊藤みどりや佐藤有香の世界選手権チャンピオンが達成できなかった五輪金メダルの夢を、成熟した女性の美を表現した荒川が勝ち取った。経験と成熟に裏付けされた勝利。 (共同)]とある。
この“成熟した女性の美”が重要なのだ。

技術が長けていても、ぴょんぴょん跳ねる少女ではどこか満足するものではない。
完成度というものは、何回転もする運動能力を示すだけでなく、女性なら女性の物質感をより熟成、芳醇な味わいに仕立てたワインであることが重要なのだ。

あのすっと立ち上がった首の姿勢、うなじからでてくる艶やかさは、彼女の経験と努力によって醸し出される“香り”があった。

それと何度もうるさいけど“トゥーランドット”という選曲。
悪いけど、夏のオリンピックでシンクロが金メダル取れなかったのは、あの「ドン・タカ・ドンタカ」和楽にこだわったところ。 ロシアの選手も言ってたけど、あの曲で損していた。
あの時日本の国際色出す必要がどれだけあったか。まあ過去の話だけど。。。

その点では“トゥーランドット”。
これは間違いなかった。この単純に美しい曲で。

欲を言えば、もうちょっとイナバウアー見たかったなあ。

 

2006.2.23 【上原ひろみ】

宇多田ヒカルは結局アメリカで成功しなかった。(んじゃないの?)
いくら工夫しても結局短調の曲しか書けないのが弱点だと思う。(今の曲も)

ちなみに今年生誕250年になるモーツアルトは全600曲のうち、短調の曲が6曲しかないらしい。
えっ「アイネクライネ・ナハトムジーク」は短調じゃないの?
いや後半に長調になる。。(?)

作曲家さんであるモーツアルトの発注には元気のでる長調が多かったからだという。
まあいい。モーツアルトもそんなに好きではない。

ところでそんな若いのに才能ある人と言えば、やっぱジャズピアニスト・上原ひろみ。
すげえ、この娘。
認める。

上原ひろみオフィシャル

 

2006.2.11 【またもやネッスン・ドルマ】

トリノ・オリンピックの開会式をみた。
予想通りパバロッティがでてきた。
そして予想通り、曲目はトDーランドットの《ネッスン・ドルマ》
「誰も寝てはならぬ」ってやつ。
そうか、夜中にオリンピックやるから“寝てはいけない”ということか。

さてこの曲、4年くらい前に、僕の教えている授業で《音楽を聴いてイメージした絵を描く》というテーマで使ったことがある。
するとやたらとマフィアの絵が多かった。
オペラ→イタリア→ゴット・ファーザー→マフィア
という連想らしい。
とても美しい曲なのにマフィアとは、、残念に思った。

今回荒川静香がこれで演技をするということをつい先日言ったが、
僕も密かに挑もうと思った。
勿論この“歌に挑戦”という意味である。

 

2006.2.1 【アートの3分類】

日本の美術には特殊な傾向があって、ある3種類のうちにどう身をおくかが問題となる。
これを理解していない人と話をすると理屈が食い違ってしまうから注意しなければならない。

それは山口裕美著「現代アート入門の入門」という本の中の、ジャーナリストの小倉正史氏の分類に示してある。

1.トラディッショナル・アート
2.オーソライズ・アート
3.コンテンポラリー・アート

以下要約
トラディッショナル・アートというのは、伝統的芸術で歴史的にみてめんめんと続いている表現のこと。表現のスタイルが踏襲されているもの。岩絵の具や墨を使い、花鳥風月や伝統的物語、名所絶景などを題材に筆で描く日本画や油絵の具で描かれた肖像画や風景画などの洋画。陶芸や工芸も含まれる。

オーソライズ・アートというのは権威的芸術で、日展・院展で賞を受賞したり、文化勲章など、権威として社会的に認知されたもの。茶道や生け花のような流派の形成。その流派の中で年功序列で偉くなっていくような団体組織。

コンテンポラリー・アートは、上記2つ以外の全て。素材や所属団体も無関係。
であるとしている。

ここで、僕が付け加えさせていただければ、2.番目のオーソライズ・アートは端的に言って公募団体に関係するもの、すなわち「〜会」という組織はすべてこれに属することになる。
ある時代において、確かにこの「〜会」という画壇にが画家の登竜門となった。しかし果たして現在はどうか?ということになる。

この「オーソライズ・アート」と「コンテンポラリー・アート」の間には様々な違いがあり、整理しなければばならないところが沢山ある。

「オーソライズ・アート」に属する者が「コンテンポラリー・アート」に対して偏見、コンプレックスをいだくことであったり、あるいはまたコンテンポラリー・アーティストが「オーソライズ・アート」に軽蔑なり、また偏見を思うことであったり。

これらは意外と根深い日本美術が抱える大きな問題があり、それぞれちゃんと冷静に考え、どこがおかしいのか、いかなるものが望ましいのか、順を追って整理し、これからこのnoteに記していきたい。

 

2006.1.24 【トゥーラン・ドット】

もうすぐ始まるトリノ・オリンピック。
冬のオリンピックと言えばがぜんフィギュアだ。
スピードスケートを見たってしょうがない。ただ速いだけだ。
スノボーをみたってしょうがない。だぼついたコスチュームを見ても面白くない。
やっぱフィギュアだ。

ミキティの出場には賛否両論いろいろあるけれど、注目したいのは“気の強そう”な荒川静香。
僕はあの気の強そうな荒川が好きだ。
いや本当に気が強いのかどうかわからないけれど、きっと気は強いと思う。

で、今日演技の曲を変えたというのニュース
トゥーラン・ドットになった。
ああやっぱりプッチーニ。
ネッスンドル〜〜マ〜〜か?
「誰も寝てはならぬ」ってやつ。
これは是非応援したい。
やっぱ日本はアラカワ「イナバウアー」!
ガキどもに負けるな。

 

2006.1.12 【抜け道】

環八を通らずに板橋から第三京浜までいける。
まるで“けもの道”のような抜け道。
もちろん「環七」も「明治通り」も通らない。
環線道路なんて通ったら負け。
環八という相手に勝たなければならない。
これは格闘技なのだ。

いや、地図という曖昧な平面相手に、行く道を消したり加えたりする作業、それはむしろドローイングに近いかもしれない。
車で駆け抜ける線の妙技。
これはまさしく、
ドローイング→造形→芸術
間違いない。

僕はカーナビのない時代 にこれを地図片手に必至に開拓した。いや創造した。
ある時は職人の車を追いかけて。
ある時は数十分も迷いながら。。。
中でも甲州街道付近の京王線「桜上水」、小田急「千歳船橋」(東京農大付近)、高円寺あたりの抜け方は難しい。
ここには何事にも見られるような「上達の壁」があった。
しかしこれをクリアしてこそ、現在の「技」や「匠」があったりするのだ。

そして混んでいる時には3時間もかかる環八を、通らずして1時間あまりで着く抜け道をクリエイティブしえたのだ。
さあ、この造形力に挑戦してくる者はいないか!!!
小川でも吉田でもボビーでもかかってこい!
やっぱり格闘技か?

 

2005.12.14 【ラジオ】

トランジスタ・ラジオ〜〜
何がそんなにトランジスタ・ラジオなのか。
有名なRCサクセションの曲。

あの歌はこの[トランジスタ]があるところがミソなのだ。
きっとそれが真空管であっても、ipodでもいけない。

《授業さぼって、きこえてくるナンバー》は、
(1)無造作に流れてくる曲をキャッチすること
  ;よって予め仕込んであった曲では意味がない
(2)ポータブルであること
  ;真空管ではいけない。運ぶのが面倒
やっぱりトランジスタなのだ。

こわれかけの〜レイディオ〜
なんでラジオでなくてレイディオなのか。
パーティでなくてパーリィ。一般ピープルでなくて一般ピーポーみたいなものか。
やっぱ「レイディオ〜」がかっこいい。

“かっこいい”と言えば

あんちゃん、かっこいい!
武勇伝、武勇伝!でんでんででんでん レッツゴウ!

ということで、今はオリエンタル・ラジオなのだ。きっと。

 

2005.12.7 【ベルマーク】

ベルマークを集めるというのは、とっくに終わっていると思っていた。
しかし、存在している。れっきとして小学校では存在している。

今はそれを集めたはいいものの、メーカーなどの基準に選別するのに大変な労力で、またその労力の割には見返る物が少ないらしい。
つまり“値”がない。
“ベストバリュー”ではなく、“ワーストバリュー”なのだ。
普通こんなことやってたら、会社は倒産である。
責任問題まで発展し、さらに公的資金まで投入し、社会にこっぴどく批判される。
ではなぜ、そんなにしてまで学校の父兄(主婦)たちはベルマークを集めることをやめようとしないのか。

それは仮説として、パズルであると考える。
社会的規範に照合すれば、とても非生産的で、非合理主義だが、パズルであればば主婦たちの自己満足は消化できる。
つまりこれを集めて適合させるゲームをやっているのだ、、、しかもおしゃべりしながら。。。

そしてそれが、1円でもプラスになれば、スーパーの安売りで1円下がって喜ぶように、このわずかな利益に“愉しみ”を見いだすのだ。
でなければこんな不合理なベルマークが何十年も存在しない。
とっとと見切りをつけて、存在すらなくなっているはずだ。

そんなベルマークをつけている企業もそれがわかっていて、こんな連中相手にそっとパッケージの後ろ側に
したたかにベルマークつけて、ち〜ちゃい、小ちゃい、ちい〜ちゃ〜い利益を得ているのだ。
ああ、せこい話。

 

2005.12.4 【ライブシングル】

またミーハーな音楽の話題だ。どうも今日の芸術はこのミーハーのあたりをどう処理するかが課題なのだ。。。いや別に芸術の話はもういい。。。。ムラカミを絡めての話はもううんざりだ。。

いや、気を取り直そう。
そもそも『ポップス』という分野(この言い方、NHK-FM的)

まあ、いい。そもそもラジオ放送などにおいて、普通はスタジオ録音が基本だ。しかしそんな中で時々ライブ版で有名なものがある。

ちょっと上げてみると、
ジャクソン・ブラウン/孤独なランナー
ピーター・フランプトン/紫の夜明け/ショウ・ミー・ザ・ウェイ
マイルス・デイビス/マイルストーン(IN BERlIN)
など。
(実はたまたまピーター・フランプトンを聴いてこれを思ったのだけれど)

まあ勝手な理屈だが、
《シングルは外で聴く←→ライブ版は家で聴く》
というのがあって、ステレオの前で“コアなライブ盤との比較”などの要素が入る場合以外、一般的には拍手がない方がききやすい。

それでもライブバージョンでヒットしている曲があるのは、“手直し”が容易にできるスタジオ録音に比べ、生音の強さとタイミングを切って差し出すほどのクオリティがあるもの、それが稀に発生するからだ。

だからと言ってしょっちゅうな訳でない。
きっとタイミングというのがありそうだ。
しばらくやめていたMTVのアンプラグドライブも復活というのも、そろそろそういうタイミングなのかもしれない。

 

2005.11.29 【『ソウル・クリスマス』〜ルーサー・ヴァンドロス】

木の葉の舞い散る野火止の
悲しく暮れゆく街の蒼い灯、ああイルミネーション
窓辺に飾ったポイ〜ンセチア
静寂といっしょに悲しい顔してる
ああ、あなたは来ない、あなたは来ない
ひとりだけのJingle Bell

             (by yoji)

さあ、クリスマスシーズンだ。
所詮《俗っぽい》と言われようがクリスマスソングが好きである。
僕はいくつかクリスマスアルバムを持っているが、以前レコードで持っていた[SOUL CHRISTMAS]というのを、CDで買おうと、今日探しにでかけた。

内容は、有名なオーティス・レディングのかなり変奏した[White Christmas]やSTAX/アトランティック・レーベルの大物たちの大変なアルバム。
中でも一番聴きたかったのは出だしのクラレンス・カーター[Back Door Santa]だ。これはサンプリングされるほどのとても有名な曲。
こんな有名なもの、すぐにあるかと思いきや、あの大手HMVのクリスマスのコーナーになかったのだ。

実は既にネットで調べても出てこなかったので、もしかしてとは思っていたが、そのことを店員にきくと、既に廃盤である可能性が高いという。
あるとしても、オムニバスのところに余っているものを探すしかないというのだ。

早速探してみると、、、、
運のいいことにそのマイナーなコーナーで探し出すことができた。
しかし同じ[SOUL CHRISTMAS]というタイトルでも、ちょっと様子が違っていた。

ジャケットも違うし、曲順も内容も少々違う。
どうもそれは、同じく有名な[FUNKY CHRISTMAS]という、ルーサー(ルーサー・ヴァンドロスが在籍した初期のグループ)やドラマチックスの入ったアルバムとの合併号といった感じ。
まあ[SOUL CHRISTMAS]自体曖昧なタイトルだから、流動的であっていいのか。。。

調べると1991年にデジタル・リマスタリングされたもの。
残念ながら、一番最初の曲が先のクラレンス・カーターのパンチのある曲からではないが、(曲はちゃんと入っている)お陰でルーサー・ヴァンドロスも、ダニー・ハザウエイも入っているし、曲数も多いし、、、ということで“よし”とすることにした。

さらに一緒に先日残念ながらお亡くなりになられ、ついこの前リリースされたルーサー・ヴァンドロスのトリビュートアルバムも購入し、併せたこのルーサー・ヴァンドロス中心の“綺麗な”流れのある買い方ができ、とても満足であった。

 

2005.11.23 【むしゃくしゃしてやった】

連続通り魔事件_________理由;むしゃくしゃしてたから刺した。
女子高生のスカート鏡で覗き__ 理由;むしゃくしゃしてたから覗いた。
白昼堂々、全裸で歩行______理由;むしゃくしゃしてたから歩いた。

むしゃくしゃすると危険である。
僕もむしゃくしゃすると、大声出したり、ものに八つ当たりしたり、決して生産的な方向には向かない。一般的にどちらかというと反社会的、破壊的に出たりする。

むしゃくしゃするから小説を書いた。
むしゃくしゃするから、ボランティアで救援活動に参加した。

などというのはきかない。
残念ながらむしゃくしゃという動機は、プラスの方向には向かないのだ。

だからと言って、人を殺したり、破廉恥な事をしたりすることは異常である。
そもそも殺人ほどの大それたことをむしゃくしゃする程度で片づけられてはたまらない。

《自爆テロ》をむしゃくしゃしてやたったというのをきいたことはない。
無論自爆して死んでるから理由をきける筈もないが、きっとむしゃくしゃ程度のものではない。それが間違っていたとしても、思想やせっぱ詰まった極限の精神状態があってのことだ。

同じように、全ての犯罪もきっとむしゃくしゃだけではないはずで、それが計画的ではなく“衝動的”であったとする情状酌量を期待しての“言い逃れ”だと思う。

マスコミや取り調べする人たちにとって、犯罪を犯した簡単な理由が欲しい。それで【むしゃくしゃ】が一番便利な表現なのだ。
それを単純に、
むしゃくしゃしてやったなんて、ひどいわ」
と、おばさんみたいに受け止めるのはきっと大きな間違いである。

 

2005.10.30 【コンクリート打ちっ放し】

コンクリートが打ちっぱなしなのである。
コンクリートを打って(型枠に流し込んで)、そのまんま放置!
コンクリート遺棄。

このコンクリートがむき出しの外壁や内装、ある時期モダン建築といえばこれがお決まりだった。歯医者さんなどのおしゃれなおうちはみんなこれだった。
さてこの外壁処理、簡単なように見えて意外と面倒らしい。

いつもは隠れているところが、むき出しになるのだから、みえない場合の処理とは違ってくる。
見えないところであれば、生コン車が来て無造作に流し込むのだが、これが表面に出てくるとなればそういうわけにはいかない。
ムラがでて、地学で出てくるような“地層”があってはならないのだ。
人間も裸になるとわかっていれば、ムダ毛の処理をしたり、おなかをへっこましたり、オイルを塗ったり、それなりの体制で望むものだ。

それゆえそれがムラのでない方法を考えてはならず、ひとつにモルタルの配合割合などにも気を使う必要がある。
あの巨匠、丹下健三の建築物にも、このコンクリート打ちっ放しが多いが、このモルタルの配合には相当こだわっていたという。

とはいうものの、最近“コンクリート打ちっ放し”の家は少なくなった。
本当の金持ちは大理石や御影石、それに砂岩を使った外壁が多く、また低コストであれば南仏風のコテで塗ったような壁がいっぱいだ。
昔みた無機質な“打ちっ放し”の外壁の横に、小ベンツ(AMG)とVWジェッタといった小金持ちの風景は、いつのまにか過去のものになってしまった。

 

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