2004.8.1 【規矩準縄】

建築家が好む「絵」というのがあるらしい。
“びゃっ”と描いたものよりも“しゅしゅっ”ときちんと描いたもの。
現代建築の多くが、直線的であるがゆえ、それに似合う絵はきっちりとしたものがいいらしいのだ。

“ちょろちょろっ”と大きな筆で描いたタピエスの絵や、まして具体(派)白髪一雄の足で描いたような絵はもってのほか。
きっちりとマスキングしたり、溝引き定規を使ったり、それこそ烏口まで使ったものの方が好まれるという。
さて、このいかにも現代建築の一義的な規矩準縄的に沿った考え方に、僕は少し異論を唱えたい。

そもそも現代建築の規矩準縄(円・直角・水平・直線)的空間には、合理性が支配しすぎていて、決して人間に安堵の空間の完成型ではない。

実際原始の住居や、動物の巣を見ても四角くないし、人間は本来子宮願望として丸い空間を好むとさえ言われる。

かのアントニオ・ガウディはそこのところを問題視し、サグラダ・ファミリア聖堂などのアリ塚を思わす巨大建築を考案していったが、相変わらず現代建築は、ある区画された方形領域に、無駄のないよう四角い空間が分割されるのが現状である。

それゆえその空間の中には「よりどころ」が必要であって、インテリアであったり、生け花であったり、四角い空間を少しでも、ぬくもりのある曲線を求めて工夫している。
そしてそんなところに、実は「アート」というものが、その“本命”ということができるのではないか。

四角い空間に、軽やかなドローイングであったりとか、不思議なオブジェがあったり。これは、人間本来の「なごみ」を規矩準縄に対向している形である。

いい例が日本建築であり、まさに畳や障子の合理的“規矩準縄”範疇の中に、床の間の限られた位置とはいえ掛け軸や生け花という「なごみ」という形で中和されている。

そんなところをもってきて、先の“建築家の好むような絵”、すなわちアートを一定の規矩準縄に納め、建築の延長線上に置こうとすることであれば、そもそものアートの役割であるとか、建築に置ける人間の心理とか、そういった建築的姿勢からも逸脱している発想に思うのだ。

 

2004.7.23 【業 病】

「こんばんみー」
びびる大木はすごいと思う。
お笑い芸人が殺到する中、こんな簡単な言葉で世間に存在感を示すなんて。
きっと思いつくようで、思いつかない、コロンブスの卵。
こういったどこにでも存在の盲点は常にあって、いくつかの条件がないと揃わない。
とっても神がかりだと思う。

神がかりと言えば、昨日久しぶりに「ベン・ハー」を見た。
あらためてローマ帝国とユダヤ王族、キリスト生誕にまつわるお話に興味がわいたが、中でジュダ(チャールトン・ヘストン)の母親と姉がかかる病気;「業病」というのが気になった。
ところで一体「業病」ってなに?

調べてみると正確には'leprosy' 、訳すと「癩病」。
以前の映画の訳では「忌まわしい病」と言っていた。
その忌まわしい病「癩病」とは・・・・。

漢字が得意な人なら読めるだろうが、僕は「癩病」を読めなかった。
これは「ライ病」と呼ぶ。
そしてさらに、この病気は、ハンセン氏が見つけた病気らしい。
というこはつまり、「ハンセン氏病」のことだ。
(知らなかった・・・・)

一応整理しておくと
業病→'leprosy'→癩病→ハンセン氏病

「ハンセン氏病」といえば、日本ではこの映画と同じように、以前隔離政策をやっており、最近になってようやく厚生省がその誤りを認めた。
最近ではホテルの宿泊拒否で問題になったのも記憶に新しい。

でも、なぜ映画の中で「ハンセン氏病」と使わなかったのか。
それはキリストさえ生まれたばかりのところで、ハンセン氏がでてくるのは、やはり時代設定として難しい。
だから少し分かりにくい「業病」を使ったのだろう。

しかしながら、なぜそこまで調べないと分からないのか。
いや単に僕が知らなかっただけなのかもしれない。

そうだとすると、今更のように、僕がこのようなものに問題意識がなかったことを恥じるばかりなのだ。

 

2004.7.19 【エア・バッティング(幻想)】

バッティングフォームを変えた。
と言っても野球はここ何年もやっていない。
勿論バッティング・センターにも行っていない。
でも僕の心の中では、いつプロからお呼びがかかっていいように体制を整えている。

そのバッティングフォームを変えた部分とは、右肘を上の方に突き上げるところ。
右打者である僕は以前は、脇を閉める形で右肘を下にしていた。
しかしこれではバットを振り上げる際、1動作遅れてしまい、球を見極める時間が少なくなる。
よって最初から上に上げていれば、その動きによる視点がずれず、より多くの時間球をみていられ、 外側に逃げる球もよく見極められるわけだ。
だからヤンキースのジーターのように、大きく肘を上に上げるようにしたのだ。

さあ、これでいつでも大リーグからお呼びが掛かっても大丈夫。
クレメンスでもランディ・ジョンソンでもかかってこい!

 

2004.7.11 【熊谷改造計画】

「今日は熊谷では38度まで上がりました。」
あ〜暑い。
・・・・・・
で、ほっといていいのか、熊谷市民!

僕は埼玉に住んでいる。
埼玉の評判は決していいものとは言えないが、比較的交通は便利だし、歴史を観てもこの武蔵野は卑下する必要のない豊かな土地だと思っている。
今日は僕の住んでいる新座市ではないが、仕事でよく出かける熊谷市の話。

熊谷と言えば、人口15万のそれほど大きい街ではないが、南に荒川が流れ、道が広くとても整備された街だ。
「うちわ祭」(毎年70万人もの人がひしめく。今年は7/20〜22)などもあるが、何より、有名なのは気象情報の中でである。

夏になればいつも、
「東京都内では36度。熊谷では38度にのぼり・・・」
死人が出ることは少ないが、犬が死んだりするほど。
土地の関係上そうなるのだろうが、一部その原因は東京の空気が運ばれる影響とも言われる。
だからといって、ほっといていいのか!笑ってていいのか熊谷市民!

まずは環境問題からの視点から考えると、つまり「温暖化」に関すること。
しかしそれは今更語る必要もなく企業でも行政でも、既にやり始めたことだし、それがもっと大きく推進されることを望むだけ。 もっとそれ以外に、画期的なものはないものだろうか・・・。

そもそも熊谷の寒暖差が激しい最も大きい要素として、海や湖のような水の媒介がない。
普通は海とか湖とかは、ラジエータの役割を果たしてくれるのだが、熊谷にはそれがない。
じゃあ、海を作ればいいのではないか。

でもそんな無茶な・・・。
・・・・・・・・・・。
えっ、ちょっと待てよ。
それに近いものを作れるんじゃないか。

『運河』だ!!。
熊谷に運河を造ればいいのだ。
しかも水源には十分な荒川がある。

実際星川という小さな川があって、これは荒川から引いてきているものだ。この歴史的な川は、かつて終戦前日の1945年8月14日、熊谷は空襲にあった時、アメリカ軍の爆撃からの火を逃れるため、皆この星川に飛び込んだという。
幾人かはこの川に救われただろうが、それでも200人の尊い命が奪われた。それを弔って毎年星川ではその精霊流しが行われる。
そして戦後60年経とうとしている時、この川がまた、熊谷市民を救う時がきたのだ。

そう街のいたるところに川をつくる。相当大規模に。
そう熊谷をベネチアにするのだ。もちろん交通手段はゴンドラ!車は一切通さない。

でも金が掛かるんじゃない?
心配する必要はない。
この熊谷の温暖化には東京都に責任がある。
東京都の税金でどうにかしてもらおう。
石原都知事よろしく。

 

2004.6.29 【デ・クーニング君】

最近眼鏡を変えた。
少し大きめの黒縁に(“クロブチ”という言い方も久しぶり)。
せっかく変えたのに、誰もそのことについてふれてくれない。
相当似合ってないのだろうか。
それとも僕のそんなことに誰も関心ないのだろうか。
ま、そうかもしれない。
さみしい..........

しょげてみる。

さてメガネ君と言えば、印象深いのがデ・クーニングだ。
オランダの画家だが、20世紀アメリカで成功をおさめた偉大な画家である。
以前とても影響を受けて真似しようとしたが、ある時この大画面には、大量の油絵具と、かなり無駄が伴う多くのキャンバス、それに引きをとるための体育館くらいの広さのアトリエが必要なことを感じた。
とてもじゃないが、そんな環境でない自分は、この大画家の手法を真似ることは無理だと悟った。

ま、ちょっと冗談にしろ、確かにかなりの物理的条件が重ならないとこの絵が描けないのは確かだ。
それとかなりスピリチャルな鋭気。
とても常人ワザではできない。

ということで、メガネの話に戻るが、この尊敬するデ・クーニングにあやかって、このメガネを『デ・クーニング君』と名付けた。
今後とも『デ・クーニング君』をよろしく。

 de Kooning, Willem (1904-1997)


↑新しいメガネ《デ・クーニング君》

de Kooning, Willem “Woman I”(1950-1952 )
ちょっとまって!この『Woman I』、2年もかけてたの?

 

2004.6.24  【ドラムの音】

最近僕の文章が批判的になっているので、ここでカーペンターズの話でもして中和させておこう。
(カーペンターズは中和剤として最も有効。世の中のアルカリイオン水。)

その昔、心地よくラジオから流れてくるカーペンターズを初めてテレビで見た時、ボーカルのカレン・カーペンターがドラムを叩きながら歌っているのを見てびっくりした。
それから改めて、カーペンターズをドラムに注目して聴くと、意外とその存在感があることに気づいた。

今でもこの時代(70年代後期)のドラムの音には馴染みがあって、それは単に通り過ぎてきたノスタルジーで言っているだけではなく、その前の時代やそれ以降のクリアになりすぎた音よりも“しなやかさ”がある。

例えば「ホテル・カリフォルニア」がいまだに支持されているのは、楽曲もすばらしいが、この時代のドラムのチューニングやエンジニアリングの力が大きいのではないかと思う。

反面この時代は、ディスコミュージックの「トン・トン・トン・トン」というような単純なリズムが支配していたり、チープなリズムボックスが出てきたり(初期の「打ち込み」は、今では聴くにたえないものも多い)、そういったものに対抗して、このドラムの音のに余計にこだわりがあったのかもしれない。

中でもこの時代の好きな曲にクイーンの『Somebody to Love』というのがある。
「愛にすべてを」という邦題で、僕のクイーンの中で最も好きな曲だが、 これを改めて聴くと、ドラムのロジャー・テイラーの音はかなり強い。
ドン・ドン・ドン・バシュッ
なんとハイハット・シンバルのしぼむ音が“しなやか”なことか!

ロックという本質は、にわかに「手作業」を感じさすものだと僕は思うが、
(反対にディスコ・ミュージックがとてもインダストリアルなものに感じるが)
そのマニュファクチャーというか、産業革命というか(言ってることがいい加減)、とってもすばらしい、グレート!

ロジャーテイラーは顔もいいが、医学部卒である。
きゃあ、素敵〜〜〜〜!

 

2004.6.23 【価値観】

日本テレビの巨人戦野球中継における中畑清氏の発言にいつも気になるところがある。
今日も、
「今のペタジーニの守備(ファインプレー)は、ホームラン1本にあたる価値観ですね」
多分価値観ではなく観を抜いた「価値」という表現が正しいと思うのだが、中畑氏は「価値観」という言葉を「価値感」として理解してるのだろう。

まあこんな間違いはよくある。僕だっていい加減な言葉を並べることは随分ある。長嶋さんだって沢山あった。
しかしこの勘違い(観違い)はずいぶんと前から繰り返されていて、誰も注意していない。

そろそろちゃんと誰かが指摘しなければいけないと思った。
そうでなければ、
「せっかく巨人出身者だから与えられたその解説者の地位なのに、本もろくに読んでない無能な人」
と思われてしまう。

ところで巨人と言えば・・・・

清原君、2000本安打おめでとう。
でも怪我が長引くということで、今期絶望は残念だね。
僕は君の生き方には賛同しないが、試合に出てこないのは寂しいよ。
早く治して、またデッド・ボールで切れて、安っぽい男らしさ振りかざしてね。

 

2002.6.20 【日本のカーデザイン】

どうして無難になってしまうんだろう。車のデザインって。
せっかくモーターショーレベルでかっこのいいのがあるのに、量産されるところまでくると、とっても無難になってしまう。

その昔最初のトヨタMR-2が東京モーターショーでミッドシップとして話題をさらった時、カッコイイのがでるなと思って期待していたら、製品レベルになってなんかがっかり。ガワはそれっぽいが、なんだか蹴飛ばしたくなるようなデザインだった。

そもそもカーデザインって最初のデザインのところまでは面白いけど、きっといろんなシガラミがあって、せっかくやった仕事でも、上でめちゃくちゃ直され、発案者はふがいなさを押さえながら最終的には妥協の産物であったりするのだろう。

まあ本来、多かれ少なかれデザインワークとはそういうものだけど、もし僕がそれをやったとして、上に美学をねじ曲げられ、悔しがりながら(ぼとぼと文句いいながら)作業をする自分を予想すると、やっぱりカーデザイナーでなくてよかったと思う。

まあ何十億、何百億と利益の掛かった品物だから、臆病になるのは当然だろうし、日本はそれで成功してきた訳だけれども(特にトヨタが)、でも“格好悪くたって売れればいいデザイン”するのって退屈にならないのかな。

新しいクラウンなんてのをみるとめちゃくちゃそう思う。
よくここまで無難なデザインを最終的に打ち出してくるかと、別の意味で尊敬する。(デザイナーのストイックさに)

でもそれでちゃ〜んと売れるんだろうなあ。
トヨタって。

 

2004.6.7 【パット・メセニー】

パット・メセニー(ギタリスト)のCDを何枚か持っているが、最近「zero tolence for silence」というのを手に入れた。
“東京のカルチェラタン”お茶の水の中古CD屋で買ったものだ。

そもそも中古CD屋には、聴き飽きた、もしくは失敗して買ったCDを売りにくるのが多いが、今回のはその手放してきた理由がよ〜く分かる。

さて、パット・メセニーと言えば、僕は「last train home」という曲が好きだ。
これはかつてj-wave開局当時の番組「パズ・アンド・ジョップス」の後ろのテーマ曲で、僕が上京してきた頃の事を思い出してしまう、実はかなりウルルンな曲である。
これが入っている「スティル・ライフ」はとても心地の良い構築的で秀逸な作品で、グラミー賞にも選ばれている。

ところがそんなPメセニーを聴き慣れたものにとって、今回の「zero tolence for silence」は、かなりのとまどいを隠せなかった。 なぜならば、やかましい。 うるさい。不快。

具体的にはエレクトリック・ギター1本で、ディストーションをかけてジャンジャン鳴らして、まるでジミ・ヘンドリックスをコピーしようとして失敗したようなもの。

実際中学の頃、エレキギターをでたらめに弾いて録音したものを友達の兄貴にこっそり「これはジミ・ヘンのデビュー前の貴重な録音だよ」といって聴かせたら本当に信じたような、それよりもひどい。

たまにメロディがあるかと思うと、それはセロニアス・モンクのようにわざとスケールをずらしたような、お世辞にも心地よい旋律とは言い難い。

ところがそれをよ〜く聴いてみると(我慢して)、かなり意図的な構築感が見えてくるのだ。
どこか現代美術(現代音楽)的に。

ライナーノーツによれば
「(前文略)今日では殆どの場合、月並みなビートに彩られてきた。僕はもう、35年以上も繰り返されてきた抑圧的なビートに完全に飽きてしまった。抑圧感のない、ピュアなサウンドが欲しかった。」

僕はこれにヨーゼフ・ボイスの鉄の粉で描いたようなドローイング作品を思い出した。
絵として通常的に保たなければいけない『抑圧感』からあえて切り離していったような。

やっぱり心して聴かなければならないが、持っててもいいアルバムかもしれない。
でも聴くにはそれなりの間隔と準備が必要。

ところで僕とパット・メセニーとは接点がある。
1988年の読売ランドでの「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」のライブ・パンフレット ;
ハービー・ハンコック、パット・メセニー、ジャック・ディジョネット、デイブ・ホランドのユニットの部分のイラストを担当したのが僕だった。(下)

 
(印刷関係上、赤黒2色印刷)
パット・メセニーは僕の絵を見ている(はず?)

 

2004.6.3 【完璧主義】

僕は人がどう思っているか知らないが、自分では完璧主義者だと思っている。
よって、

・スポーツドリンクで食事をする人
・朝から永谷園のお茶漬けを食べる人
・疑いもせず、高いブランデーを水割りにする人
・ビールに発泡酒をついでくる人
・バンダナを頭に巻いてる人

はイヤである。

ところが次の場合は許せる。

・上から下まで黒ずくめな格好なのに、靴下だけ白い人。
・カセットテープの編集で、テーマに全く関係のない曲を1曲入れること。
・理論的に言いかけて、やめること。

積極的な意味で“完璧を崩すこと”は“さらなる完璧”である。《洋二》

 

note15
note14
note13

note12
note11
note10
note09

note08
note07
note06
note05
note04
note03
note02
note01