2003.7.1 【ピーター・バラカンと増殖

ピーター・バラカン氏はYMOの仕掛け人として有名だが、近くに住んでいるわけでもないのに、何の因果かこれまで数回見かけている。ある時は渋谷の交差点、ある時はジャズのライブ、そしてある時はコンビニで。
コンビニで見たときは、ちょうど彼が店で地図を見ていて、目的地らしきところを確かめるとすかさず何も買わずに出ていって、せめてガムくらい買えばいいのにと思ったところが、有名税たる損な部分なのかもしれない。

そもそも僕は彼の番組のアメリカのドキュメント番組のテレビはよくみていたし、ラジオもよくきいた。特に彼の著書「魂のゆくえ」はブラックミュージックの教科書とも言うべきもので、その伝道師的な役割に、古館伊知郎風に言えば“ブラックミュージックのフランシスコ・ザビエル”と呼べるくらい、日本においてのその存在は貴重な人だと思う。

イギリス人(スコットランド人?)なのに、とても音楽趣味に隔たりがなく、黒人音楽からプリミティブなものまでとても範囲が広い。中でも様々なミュージシャンと競演するライ・クーダーへのリスペクトは熱いほどだ。

そのライ・クーダーはギタリストだが、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のように、いわゆるコラボレーションを主体としたクリエーターとしての評価が高い。 「ブエナ・ビスタ〜」の場合はキューバであったが、伝承音楽や地域性を単に讃美するだけでなく、融合から新しい価値を見い出そうとしていて、これまでニューオリンズ、テックス・メックスなどのように、あまり誰も触れないちょっと埃臭いものを取り上げて、そこから見事に独特のエッセンスを引き出し、彼特有というべきヌーベル無国籍エスニカンミュージックを作り上げている。

考えてみたら同じような意味で「クロスオーバー」「フュージョン」など、言い方は違っても、どこか音楽の変化はこの「コラボレーション」「融合性」によって行われてきた。 すなわちそれはあたかも結合を繰り返しながら増殖分解していくアメーバのように、勿論突然変異もあろうが、下等動物的に増殖するのがこの分野の発展の特徴なのである。

話をもどせば実はピーター・バラカン氏も、立場は違うものの、ライ・クーダーのように特異なコラボレーションを求めに日本にきたのではないか。 (勿論他の理由もあろうが)
そして今考えるとYMOのアルバムの「増殖」というタイトルがまさにそれを示唆しているように感じるのである。

 

2003.6.7 【ポストモダンと笛吹ケトル】

僕が学生の頃「ポストモダン」という言葉が乱発されていた。その意味がよくわからないうちに、一種流行語のようになっていた。
そもそもポスト・モダンとは、建築から始まった言葉で、「モダン」に対する「ポスト;次のそれ」という意味。いわば「ポスト癒し系女優」みたいに何か確定された位置を次に“後釜に入るもの”というイメージがある。
逆にその反対を考えてみると、「元祖」ということになって、今で言うと「ポスト癒し系」は吉岡美穂、「元祖癒し系」は井川遙ということになる。僕はやっぱり井川遙の方が好きかな・・・。
いやそのことはさておき、たとえば「元祖天才バカボン」はあっても「ポスト天才バカボン」はないのと同様、逆に「ポストモダン」があって「元祖モダン」を忘れがちのように、“元祖”を考えなければこの言葉を正確にとらえらたことにはならない。

今考えてみると、難しい磯崎新中沢新一あたりの頭のいい人たちの会話を思い出すだけであって、この本質的な意味を理解してこなかったような気がする。このモダンと言う意味を真っ正面から追求していくことよりも、むしろ“ポストモダン調の「笛吹きケトル」”の方を先に思い出してしまう。そのケトルはもしかして“笛を吹かないもの”だったかもしれないが、ともかく通販で目にするあのおしゃれなヤカンが目に浮かぶのだ。

それはアール・ヌーボーもであったように、新しい運動と言って主義を唱えるうちに、(その本質であったかどうかは別にして)象徴的な形もしくは様式を生み出すのがムーブメントの特性である。アール・ヌーボーの場合、それは英語でいえばニューアートという理念で「革新」を追求しようとしたが、結局曲がった線のあのエミール・ガレや、バン=デ=ベルデらによる様式美で終始してしまったように、(それが運動体的に結論は失敗に終わったという教訓を考えつつ)ポスト・モダンも、「笛吹ケトル」がそれに見えてしょうがない。

それは確かにこの混沌とした時代をとらえるときに、その多面的な価値観になぞられて、笛吹きケトルもまさしく多面体であるのだが・・・。


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03.5.25 【ブランデーグラス】

僕がこれまで飲んだ酒で一番高いものは、サザビーズのオークションで78万円で競り落とした“なんとか”いうブランデー(名前忘れた)。確か割れ肌のバカラの瓶に入っていたもので世界に何本もないというしろもので、知人の秘蔵のコレクションから、割合でいくと5万円分ほど飲ませてもらっただろうか。恩着せがましく飲んだ日付と名前まで書かされたのを記憶している。

その時はまず本物を飲む前にマーテルで練習させられた。
(1)まず香りを15分楽しむ。
(2)口に入れて舌で転がす。
(3)口を半開きにし鼻からその気化を楽しむ。
(4)数分後ようやくゴクリと一気に流し込む
この嗜む方法をしらないとヨーロッパの貴族になれないというのだ。

そんな前提があって、やっとグラスにそのブランデーを注がれた。
トクトクトク・・・
それで言われたとおり先の手順で飲んでみる。
〜〜〜〜〜〜
確かにぶわ〜っとした広がり。
その芳醇さ先のマーテルにとてもくらべものにならない。

「まるで猿ヶ京温泉に落ちる藤原紀香のようだ!」

そう評してもあまりいい顔はしなかったが、 さすがに年代物のものは、その意味なりの価値があると実感させるものだった。

それからというもの、ただのブランデーでは満足しなくなっていて、たとえ1万円くらいのヘネシーを差し出されても「へっ」と思うようになっていた。
ましてそこらの安物のブランデーなんてまったく無視のアッカンベーだった。

ところが最近日本酒やウイスキーにちょっと飽きてきて、なんか別のものはないかと探していたところ、妙に安物のNapoleonが気にかかった。
もしかしてこの程度でいいのではないか。ちょうどあの味も忘れた頃だし・・・・
というわけでおそるおそる試してみることにした。
するとこれが案外いけるのだ。甘からず辛からず・・・。
まったく人間の舌なんて時間が経てばいい加減 なものだ。
そもそも仮にもおフランスのナポレオン。クオリティが悪いわけがない。ある意味シングルモルトのスコッチより、むしろコストパフォーマンス的にはこちらの方が上かもしれない。

そんなわけで、しばらくはコニャックじゃなくても、フレンチブランデーでいいことにした。

そこで飲み方だが、ロックでもいいしソーダ割りでもいいのだが、できれば先の王道な飲み方でいきたい。
すると当然“ブランデーグラス”が必要になってくる。

そうだ、僕も石原裕次郎のようにブランデーグラスの似合う男になろう!。

ということで今度金が入ったら、ブランデーグラスガウンを買いに行くことにした。

 

2003.5.14  【ベンツを見に行く】

今日ベンツを見に行った。
ベンツは高いが、見に行くのはタダだ。

王選手は引退直前まで4番バッターだったが、ベンツも年をとってもベンツだ。ベンツは常に「4番・ファースト・王」なのだ。

ベンツは、やっぱり500以上、できればS600に乗ってこそ意味がある。 今日みてきたの97年式S600クーペ。
現行のものより風格もあって大きく見える(実際サイズは現行のものより大きい)。
それにベンツはセダンよりクーペが断然いい

自分が運転する車という気分が強くなるし、より贅沢感が強い。
そもそもドアなんて2枚で十分だ。後ろに乗りたければ前から乗ればいい。

エンジンは当然V12。
12気筒なんてスーパーカー並みだけど、少なくとも8気筒以上は欲しい。それ以下は車と呼ばない。
出力も500馬力。おいおい、それだけも必要か。いいやいいや、やっぱりホームラン王は756くらい欲しい。

さてこの車、当時は2100万円くらいしたという。
バブルも終わってその値段はないだろうというのに、まったくそんな値段。
さらに不具合も多く生じ、その都度修理代に40万以上かかったとか。
そこまでアホなくらい金がかかってきた車なのに、その後は値段が下がる一方。今は数年たって当時の10分の1。
まだそこらの国産の新車を買える値段だけれど、その“あたい”が違う、あたいが。
当然僕が選ぶのはこっちのほうだ。
・・・んがしかし・・・・。
・・・・・とほほっ。

こういう「欲」って不謹慎に思われるのよね。芸術家って。

ちなみにジャスパー・ジョーンズはベンツときく。
あまり車好きでないらしいけど。

 

2003.4.29 【ビブラート】

炊飯器の中にくっついてているお米の薄い膜は、薬を包んで飲みやすくするオブラートの成分と同じときくが、今日はそのオブラートではなくビブラートの話だ。

ビブラートとは端的に言って、楽器や歌唱においての音を震わす奏法。特に歌唱の場合、上手なひとはこの技術が卓越している。
あァあァあァあァあァあァ〜〜〜〜てな感じ。

しかし最近のロックは、こんなやぼなビブラートを使わない。
オアシスなんかをきくと、まったくビブラートなしの唱法。奴らにはビブラートはかっこわるいらしい。

ルーツを探るとミックジャガーあたりがそのパイオニアなのか。
ゲットノオ〜〜〜〜〜〜オ
とのばしっきり。確かに
ゲットヌおォおォおォおォおォ〜〜
と喉を震わすとやっぱり調子が狂う。

かといってプレスリーは結構ディープにビブラートきかせてるし、ハードロックやプログレの人たちはへんなビブラートだったりする。だから単純にビブラートそのものがロックを否定するものとは言えない。

フォークの場合も同じように、ボブ・ディランなどあえてビブラートをしないために、語り口調のような説得力を持つ。吉田拓郎も同じく、へんにビブラートさせて歌ったら気持ちが悪い。
かといって「さだまさし」が「あ〜あァあァ」「う〜うゥうゥ」とビブラートきかせて歌わなければ「北の国から」も感動しなかった。

さて、こと素人のど自慢においてはビブラートがかなり有効だ。
歌のうまさを競うためには、このビブラートの善し悪しがチャンピオンを決定づける。そうでなければ特別賞だ。
そして考えてみればこの僕もカラオケでビブラートを多用している。
くう〜〜〜〜〜もりィ〜ィ〜ィ〜ィ〜ィ〜ガラスを〜ォ〜ォ〜ォ〜ォ〜
(しかも5度上げて)


2003.4.19 【ロック】

最近ロックというジャンルの音楽をあまり聴かなくなった。おそらくこのジャンルの音楽(?)は,本来10代の若者が聴くものとして医学的にも証明できると思う。

そもそもロックって一体なんだろう?
--それは生き方さ!!
なんて使い古された問答はやめよう。

ロックとは,端的に言ってディストーションの妙技であって,単純に技法的な問題の歪みによって周波数レベルで構成される。それはおそらく耳を程良く悪化させる作用があって,若者は本来この悪化を楽しむツールなのだろう。よって若者でない場合は,体内的な悪化を嫌ってくるのが通常なわけで,そこから離れていくという理由がここにある。

ところがこの年になって,たまにそのロックらしいロックが聴きたいときがある。
でもそれはある条件,例えば
●天気がいい●湿度30%以下●二日酔いでない日など。

つまり総じて健康状態が安定しているとき,一時的に若い状態になった時に,ディストーションが程良いバイブ(まさしくバイブレーション)として伝わってくる。

さらにまた今日ZZトップを聴きながら分かったことだが,『セブンスコードのディストーション』が,極めて効果的みたい。

 

2003.3.25 【人人展】

「*人人展」(を観てきた。ついでに「汎美展」も・・・。(毎年これをツインで観る。さらに本当はVOCA展も・・・)
1年のうち,この花粉の時期に限って上野に行く。(最近それ以外上野には行かなくなった)。
それにしても同じトビカンでやっている「ヴェルサイユ展」はすごい列なのに,まったくこの2つの展覧会は混んでない。いやみのつもりはないが,すきすぎてて何だか気持ち悪いくらい観やすい。

気持ち悪いといえば,やはり人人展ということで,失礼な言葉に感じるかもしれないが,この“気持ち悪い”は,むしろこの展覧会を評するのにほめ言葉だ。(出品者は結構それを狙っていたりもする)いわば日本美術の「お化け屋敷」とまではいかないが,いつも独特の「怪談」みたいなコワモテさが特徴である。

ただそこには丸木夫妻やその仲間の由来から,その丸木氏らの原爆図が示すとおり,必要以上なまでの反体制的な,今では少なくなった60年代サブカルチャー的メッセージ色の強い,ただのオカルト的なものだけでは社会情勢に対する反応を示す部分があった。それゆえどこかで期待してしまう感があり,今回は折しもイラク戦争のこともあって,どのような反応があるかこれまで以上に興味があった。

しかし実際は個人追求というか,悪く言えばマスターベーション的に見え,情勢を肩すかししているような,どうも矛先が違うような,少々期待はずれの印象であった。勿論社会風刺があればいいってもんじゃないし,公共性を強くすればいいってもんじゃない。戦略的効果が激しく不愉快な空間を放っている時もある。でも社会情勢から逸脱した個人的ベクトルが進んで行きすぎると,やはり共感はできにくいと思う。

当然人々はその展覧会から遠ざかっていくのはしょうがないかもしれない。
漠然とどこか美術家の美術に対する“悲観”が,そうさせている原因じゃないかと思ったりする。

(*人人とは1文字であるが,漢字がないので2文字で表現している)


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03.3.7 【conference・会議】

原宿のMUSEE F+表参道画廊でやっている鷹見明彦企画の《conference・会議》を見てきた。
出品者は大久村つなお・関口国雄 高瀬智淳 水野圭介
どれも[空中殺法][猫騙し]を技とするコンセププチュアル・アーティスト。

知り合いである大久村つなお氏の作品は,入り口から鍵が落ちていて,それをおいかけていくと観葉植物にたどりつくというもの。ヘンゼルとグレーテルをテーマにしており,「パンを落としていって,森にたどりつく」ことを鍵と観葉植物で表されている。
多くのお客さんが,「鍵落ちてましたよ」と届けにくることが多く,その割合はけっこう高いらしい。
僕は届けなかったが,その理由は,この手の展覧会でありがちな「落とし穴」にはまらないように身構えていたせいだ。決して不親切な訳ではない。
鍵を届けたお客さんに「どうもすみません,実は・・・」といい,すぐに戻ってまたセッティングしにいかなくてはならない。1日何度もあるその行程が,このアーティストの大切な仕事だ。

今回の作品群は,ひっくりかってくる王道のものもあれば,なかなかひっくりかえりずらい作品もあった。
通常【当たり前の作品】(この言い方も何だが)と並列してる場合に,それを手玉にとったような効果を得意とするアーティストは,この4人の集合体では難しいところもある。 自分の好みで言えばすぐにひっくりかってくるような,明快に完結している「笑点」的なものが楽しい。

それにしても,この手はまったく見る構えが面倒くさくって時間がかかる。おかげで歯医者の予約に間に合わなかった。

 


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03.3.6 【ジェットサングラス】

中学生の頃,学校の帰り道にあるカー用品店にジェットサングラスがあって,それをかけると実にカッコよかった。
でもその時は“行きすぎのカッコよさ”に若干抵抗感があった。

そもそもカッコよすぎるのは,どこか実用的ではない。
サングラスみたいなもともとカッコイイものは,本当に1番カッコイイものよりも,2段階くらい落としたくらいの方がいい。一番カッコイイものはむしろ“カッコ悪い”にふれる可能性もある。分かりやすく言えば,それをかければ誰もが完全無欠のロケンローラーになれて,カッコイイとワルイの間の道を通ることになる。
そうでなくてもハイセンスファッションとは少し間をとっていた僕にとって,その頃“カッコよすぎる域”には,まだまだ多くの危険を感じた。

しかし最近になって,キュ〜と曲がったジェットサングラスに妙に魅力を感じ始めていた。原宿なんかを歩いていなくても,普段そこらの街角で,かっこよすぎるサングラスが,自然に“カッチョイイ姿”になってきた。
つまりその推量分だけ「カッコイイ」という正当評価をするのが今の時代であって,何が原因かは分からないけれど,以前のような「格好悪いリスク」を考えること自体,古臭く思い始めたのだ。

そういうことで「ジェットサングラス」を購入した。
さあ次はウエスタンブーツだ。

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