2003.10.25 【長髪】

僕はいつの間にか長髪になっていた。長さはキムタクを超え、假屋崎省吾を超え、やがてロバート・プラントをも超えていた。

なにげに伸ばし始めた髪だが、初めは相当に評判が悪く「うっとおしい!」「不潔!」「金やるから切ってこい!」などの罵声もあったが、半ばそれに何度も挫折しかかりながらも、嫌がらせのように伸ばしてきた。
でも不思議なことに、ある程度伸びて時間が経ってくると馴染むもので、いつしか[長髪=亀田]というのが当たり前になっていた。

そもそも僕はわざとらしい芸術家のイメージは好きではなかった。芸術家が髪を伸ばしているなんて“いかにも”である。 学生の間はそういう“いかにも”の奴らをむしろ軽蔑していたくらいだ。
しかし実際にこの芸術家のイメージに近づいてみると、これがこれが、なかなか便利なのだ。

こんな職業(というかこんな立場)だと、変な時間に家にいたりする。たまに近くをぶらついていると、タダでさえ目つきの悪いその風貌に、家で爆弾でも作ってる人に疑われかねない。
でも長髪にしていると、多くは[画家・音楽家・舞踏家・ホスト・おたく]なんかに見られ、なかなかテロリストまでイメージは及ばない(はず)。

たまに、キャンバスなんか持っていると、 「やっぱり絵描いてる人なんですね」 と納得されたりするから、効果はかなりあるようだ。

一般的に芸術家は髪型とか髭とか変な眼鏡とか何らかの「印」をもって身を差別化したがる。
それは多分芸術家たる「アイデンティティの強調」からだ。
周りの人がその「印」をうまくキャッチし、何らかの不安を取り除けるのであれば、それはとても「調和」なことだと思う。

その意味でこの長髪はとても雄弁である。

 [Ernst Fuchs]
ウイーン幻想派の鬼才エルンスト・フックス。
でもここまでくるとやはりテロリストに間違われるかもしれない。

 

2003.10.16 【好き嫌い】

「あなた好き嫌いはっきりしてるほう?」
と言われた時がある。
言われたその時はよほど強い言い方で「嫌い」を主張したのかも知れない。「へどがでるくらい嫌い!」と言ったのかもしれないが、よっぽど腹の虫のいどころが悪いとき以外、そんな乱暴な言い方はしない。本当はどちらかというと優柔不断でいる時の方が多い。

特に食べ物の場合、そんなにも食えないほど嫌いなものはないし、「まずい」と思っても口に入れるくらいはできる。小さい時から戦中育ちの親に指導されたせいか、よほどのことがない限り食べ物は大切にするくせができている。

食以外も自分では世の中のことを割と寛容に受けとめるほうだ。
どうしても許せないものもあるが、受け皿は人より広いと思っている。
しかし最近その寛容さで曖昧なものより、むしろ好き嫌いははっきりしていた方がいいと思ってきた。もっとコントラストをつけた方が自分がクリアになるのではないかと。

たとえば黒沢明は好き嫌いがとてもはっきりしていたのではなかろうか。
そもそも映画監督は物事をはっきりさせていなくてはいけない。はっきりしてなくては全体が動かなくなる。右と言ったら右、左と言ったら左、そういう絶対的判断が監督のの仕事で、まずそこには好き嫌いが大きな基準となる。だから数千万もするセットでもボツにする判断には強靱な好き嫌いの基準があったはずだ。

だから今は意図して「これは好き」「これは嫌い」と区別をつけるようにしている。

僕は野球は好きだが、実は長い間「巨人ファン」でも「アンチ巨人ファン」でもなかった。
ただ「野球が面白くなればいい」ということを巨人を中心に見てきた。(巨人を中心にするしかないんだもの)
しかし最近になってホントに心底巨人が“嫌い”になった。潜在的にあった「アンチ」が見事にクリアになった。 ナベツネさんありがとう。

 

2003.10.9 【仮面ライダー・ラッキーカード】

掃除していると仮面ライダーカードがでてきた。
これは仮面ライダーチップスについてくるカードで、1971年に発売された仮面ライダースナックを再び仮面ライダーチップスとして4年前の1999年に復刻された時のものだ。しかもその中にはあの大事なラッキーカードも含まれている。

ちょうど4年前、何十年ぶりかでそれが復刻されるという話をきいて、発売当日コンビニに買いに行った。
さいさきよく出てきたのがこのラッキーカード。気をよくしてしばらく買い続けたものの、それからまったくラッキーカードは出てこずじまい。 そうこうしているうちに仮面ライダーチップスは店頭から消え、2枚集めないともらえない「仮面ライダーアルバム」は幻のまま。それから今まで埃をかぶりながら放置されてきたというわけだ。

それを考えると何だか悔しくなってきて、カルビーのホームページを探し、問い合わせてみることにした。
するとタイミングよく、なんとこの2003年10月26日からまた再発売するという。

以下カルビーのお客様相談室のミワさん(女性の方)の電話での回答。

【Q1】前回のラッキーカードは今回のには無効ですか?
【A】残念ながら無効です。

【Q2】前回のはいつ終わったのですか?
【A】2000年3月です。

【Q3】なぜ早々と修了してしまったのですか?
【A】前回の復刻は1971年発売当時のお客様(現在お父さん世代)と、今のお子さまの「橋渡し」というのがテーマで、現在のお父様たちのはとても人気でしたが、今のお子さまたちは期待よりも売り上げが延びなかったためです。

【Q4】ではなぜ再復刻を?
【A】先のお父様世代からのご要望が強く、具体的には前回の復刻の際のカードナンバー216までしか発行していなく、残り217〜546番までが欲しいというかたが沢山いらっしゃったためです。

【Q5】1〜216番まではもう入手できないのですか?
【A】ラッキーカード3枚で過去のカードセットに交換できます。なお現在は他にラッキーカード1枚でアルバム、5枚でスペシャルブックに交換できます。

【Q6】前回のラッキーカードは最初に多く出しておいて、その後出し惜しみしたのでは?
【A】ラッキーカードは原則的に24分の1の確率、またケース買いの場合必ず1枚入れています。

【Q6】前回の復刻版と違う所は?
【A】ポテトチップスの味が多少違っています。中身は当社製品「うすしお」に準じており、最近塩の品質と化合物を替えました。それ以外は前と変わりません。

ということ。
そういえばほんとの最初の仮面ライダーアルバムはどうしたんだろう。やっぱり捨てたんだろうか。

 

2003.9.21 【ピカソ・クラシック1914-1925】

最近ピカソの展覧会で、アカデミックな作品の展覧会が多い。
今も上野の森美術館の《ピカソ・クラシック1914-1925》は、ピカソのあまり目立たない新古典主義の頃のもので、そのポスターは一瞬ピカソでなくアングルの作品かと思うほど。
おそらくポスターではそれを狙っているのだろうが、その主旨は[ピカソはわかんない絵を描いているが、こんなにまじめにも描いていた]というところだろうか。

ピカソの評価は自分の年齢によって変わってくる。
ある時は「すごい」と思い、ある時は「こんなこと実は誰でもできる」と思ったり、時に「ペテン師」に見えたり、その「ペテン師ぶりは尊敬すべき」と思ったり、様々に変化していく。
一般鑑賞者も「?」から始まり、解ったり解らなかったり、否定したり肯定したり。
そういう疑問やナンセンスや「ふくみ」があって、流動的な価値観を生み出している。
実はここが「ピカソ」の魅力なのかもしれないのに、最近では初期の「アカデミズム」を扱う機会が多く、早熟のこの画家のこの作品をとりだし「立派な絵描きはちゃんとした基礎力があるから何やってもいいんだ」などという、もみあげの長い美術の先生みたいに恩着せがましい展覧会が多かった。
しかしそれはいつまで経っても教育レベルの「標本」でしか留まらず、ピカソ理解の一部でしかなかったように思う。
今回は初期ではないが、またそのような「恩着せ」が聞こえてきそうで、ポスターを見るたびに、行こうか、どうしようか迷ってしまう。

ところでポスターの絵(アングルみたいな)をよく見るとピカソはけっこう“投げやり”で“やりっぱなし”、無論ピカソブランドとしてはこれでよし!とするところだろうが、やっぱりあの絵、下手だと思う。

 

2003.8.26 【大衆音楽と純粋美術】

美術手帖にたまに音楽の話題があった。その度、環境音楽はブライアン・イーノとか、その古典としてエリック・サティとか、パフォーマンスが入ればローリー・アンダースンとか、どんな評論だったかちっとも憶えてないが、80年代にはよくこれらが登場していた。
しかしこの手のをほとんどが僕にはまったく興味がなく、この「アートっぽい」ものにむしろ“ひ弱さ”を感じ、退屈なものに思っていた。もしかしてもっと刺激的で、自分のスケール感を越えたものがあるのかもしれないが、それを広げていく導入口がこれらには見えてこなかった。
それよりも僕にとってはよっぽどジェームス・ブラウンの方がパワフルで、マイルス・デービスの方が尊敬でき、マッコイ・タイナーのほうが荘厳に感じられた。

でもソウルもジャズも所詮純粋芸術ではなく、商業ベースであることは間違いないわけで、そこのところにはいささか自分の現代美術をやっていることと、真の芸術性や純粋性に矛盾を感じていた。

「俗」の内側にいるものと外側にいるもの、すなわち音楽においては、その現代音楽か大衆音楽か、また美術においては現代美術か商業美術か考えるところで、その垣根にいつも翻弄されている。
そこはいつも整理せねばと思うところで、商業美術と純粋美術のところでとまどいがあったり、現代美術と現代音楽が対応しているはずなのに純粋性より大衆娯楽的なものを愛していたり、この交錯する部分をうまくつかみとりたい。

 

2003.8.11 【ハリウッド映画の味の素】

どこまでがハリウッド映画なのか知らないが、アメリカの映画には、暴力・恋愛・テクノロジーの他に何か特徴的な要素があるような気がする。
それは映画「バニラ・スカイ」を観た時「精神→バーチャル→生命」の中の次元の行き来による「プチ錯乱状態」とか、「困惑の浮遊感」みたいな、何か隠れたハリウッド独特の人工的な化学調味料があるように思えたからである。

考えてみたらマトリックスでもマイノリティ・リポートでも、あるストーリーの進行中、そこから現実を紐解こうとする中に、ちょっとした錯乱させるような仕掛けを作ってある。以前インディアナ・ジョーンズをジェットコースタームービーと呼んだように、「ジェットコースターのような」精神的不安さを意図的に設定されている。

いわば映画に必要なものは、塩(暴力)、砂糖(恋愛)、スパイス(テクノロジー)、そして大事なのは「旨み成分」であり、その化学調味料としてのプチ錯乱状態の「味の素」が、ハリウッド的エンターテイメントには欠かせないのだ。


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03.7.18 【りそな銀行のCI】

りそな銀行に国の公的資金提供によって、事実上りそなは国有化された。これは経済学者ならずとも“失敗”と結論づけるのが、大凡のみかたである。
その本質的原因は他の詳しい方々が追求するにせよ、問題の一部に、あのシンボルマークを初めとするCI(コーポレート・アイデンティティ)デザインがないだろうか。
前のあさひ銀行さることながら、埼玉、協和のそれぞれ統合される前からもよく利用していた。つい先頃までレア物の協和埼玉のキャッシュカードも持っていた。
前から特別かっこいいマークでもなかったが、それでもあさひ銀行の「赤い手描きの太陽のような」マークは、デザインのお手本としてデザイン関係の文献に取り上げられるほどのものであった。
なのに今回のあの冴えない緑のマークデザインは一体なんだろう。

特に銀行をそのようなデザインだけで選んでいるわけではないが、りそなの場合はそれが気にかかるほど前時代的で古くさい感じ。Rをかたどった形は平凡だし、緑とオレンジの配色は、まるで昔の大洋ホエールズだ。シピンまで思い出してしまう。
とてもこれが21世紀に誕生したものとは思えない。申し訳ないが、その理由だけで数ある口座を全部解約しようと真剣に考えたくらいだ。

たかがデザインとは言え、これはすごく重要ななことのように思う。
僕のようにこのデザインが悪くて口座を解約しようと思った人は少数だろうが、マークデザインによる十分な契約者への配慮のなさや、強いてはこの組織の内部統制の悪さまで読みとった人が大勢いるのではないだろうか。
見かけで判断していけないとは言うが、すでにこの破綻は、マークを見た段階で多くの人が予測していたのだと思う。

 

2003.7.13 【キーファーと経済】

今では本当に過去のように感じてしまうアムゼルム・キーファー。あのダイナミズムの評価は、今は幾分冷ややかに感じるが、以前は確かに絶大な影響力があった。ちょっと前に流行った“カリスマ”という言葉は、十数年前美術界で確実にこの人のことを指していた。

とはいえたとえ美術界でのカリスマでも、多くの日本の美術鑑賞者たちには必ずしもそうではない。いつもは美術展の大半を占める美術愛好家のご婦人たち(通称おばさん)は、このカリスマの作品には近づこうとはしなかった。この作家特有の大きな鉛で作られた飛行機やミクストメディアの大画面の前には、ただリュックを背負う若い画学生が腕組みをしているだけだった。

そもそも現代美術はマイノリティであって、すべての美術愛好家を網羅できるものではない。現代美術は運命的にそういう体質にある。ましてやご婦人たちは、“彩りのきれいなもの”が好みであって、“埃っぽい”キーファーの作品では、家で残してきた掃除を思い出させてしまう。

しかし主催する側からすると、やはり人員が集まらないと始まらない。 概ねのデパートの美術企画展は、やるだけでなくデパート自体の売り上げに貢献できるもの、すなわち展覧会に出掛けたついでに主婦がデパートで自分のスカーフや子供の肌着、ついでに亭主の靴下なんかを買うような形に仕掛けるのが普通である。
従って開催する展覧会もそれを誘導する為の主婦に好まれるものでないもでないといけない。 だから必然的に幾分コンサバティブな企画が先行しがちになるのは仕方がない

なのにキーファー展のこれはどうだろうか。
キーファー展→知らない(興味がない)→デパートにいかない→無駄遣いしない→消費されない→不景気

勿論西武の思惑は、このような目先のデパートの売り上げのところにある訳でない。もっと先の企業イメージとして現代美術を扱ってきた。それは一般の鑑賞者の興味とは別のところで、重要な役割を担う他のデパート美術館運営とは意味を異にするものであった。
でもそれは日本においては数少ない貴重な存在で「現代のメディチ家」といわれた所以でもあり、その存在は作家たちにとっても大きかった。
ただそれはグループ全体の資本力によって支えられたものであり、残念ながら企業全体の余力がなった今日では、ただ“やっかいもの”扱いされ、いくつかの美術館も閉鎖せざるをえない状況になってしまった。

今考えると「バブルの時代」とまでいかないまでも、少なくともまだ“余力”があった時代、その内するテーマは別にあれ、このキーファーのダイナミズムがとても象徴的に見える。
今は大画面の堂々たるあのダイナミズムが、どことなくむなしく感じてしまうのが正直なところだ。

 

2003.7.6 【美術家が女優さんと】

女優さんと結婚できたらいいだろうな。
でもきっとできないよ。
だって「絵描き」なんだもん・・・・。

「鶴田真由結婚!ニューヨーク在住の美術家と」
なに〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!

何ヶ月前のニュースだっただろう。僕はショックで2、3日立てなかった。
確かに子供の頃は将来絵描きさんになったらきれいな女優さんと結婚できるかもしれないと思っていた。
しかしそれは幻想、まず現実にはそんなことはありえない。なぜならたとえそこそこ売れた美術家でも、芸能人と接する機会はほぼ皆無だからである。
たとえばルイ・ヴィトンのパーティに村上隆や奈良美智なんて招待されるだろうか。
(いや村上せんせいはデザインに使われるほどだから、当然呼ばれているだのだろう。むさいから映らないだけ?)

にしても、おしゃれチェックをされている福田美蘭をみたことがあるか!
そう、どういうわけか日本の芸能界と美術界は長年絶交されているのだ。
なのに・・・・・
「鶴田真由結婚!ニューヨーク在住の美術家、中山ダイスケと」
なぜ。なぜ。なぜ!!!

言っておくが僕はやっかんでるのではない。
いや、やっかんでいるが、このことの理由をぜひ解明しておかなければならない。

日本では芸能界と美術界は、わずかに美術の側から芸能活動という手段で芸能界参入する以外に接点は難しい。
小説とか映画をつくった池田満寿夫とか、特殊な環境やキャラクターでの岡本太郎とか、何か芸能的資質を持って潜入するしかない。
さらに所得の面でも不可能で、 芸能人に釣り合うほど稼ぐ美術家は、せいぜい年をとった日本画家くらいしか見あたらない。
だから当然、純粋な美術家は、芸能人とかすりもしないところにいる。

しかし状況が違うのはニューヨークの場合だ。
所得の面では分からないが、少なくとも交流する場があるらしいのだ。
以前お話した、たかが“シルクスクリーン刷り師のS氏”でさえ、ミック・ジャガーと交流があったという(本人は友達だといっていたが、それは嘘かも知れない)。
日本ではあり得ない話だが、NYには美術と音楽、演劇が垣根のない状態で社交界があるというのだ。

そう、そこで鶴田真由と中山ダイスケはニューヨークで出会った。
つまりNYだから「そんなこと」がありえたのだ。

あ〜あ。

 

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