2004.2.22 【高階秀爾氏】

高階秀爾*氏を尊敬している。著書も沢山読んでいる。
もう5年以上も前になろうか、ある建築のお仕事をしていて、ぱっと見上げたら、偶然そこに高階秀爾氏がいたことがある。びっくりした。

その付近に住んでいるのだろうか。当時(現在も?)国立西洋美術館館長だったので、出勤途中だったのか、それとも日曜美術館の番組出演に出かけたのか、どっちにしろ黒いトレンチコートにカラーシャツで、媒体で見るとおりのダンディないでたちだった。

思わず挨拶してしまったが、むこうはきょとんとしていた。そりゃあそうで、僕と面識があるわけでない。同じようなことを池田満寿夫氏にもしたことがあるが、むこうは誰だか知らないのに勝手に挨拶するのは、あとになって恥ずかしい。

せめて開きなおって「いつも本読ませてもらってます。ここにサインを」なんて言えばよかっただろうが、そんなことを出来るタチではない。変なプライドが残っているのが僕の弱点だ。

高階秀爾氏の話に戻すと、幾つもある書物の中で、特に「20世紀美術」の「イマージュとオブジェ」という文章がとても好きで、何度も読んでいる。それまでの美術史が、違うところから線になって見え、まさに「目からうろこ」のものであった。しかもそれが分かりやすい表現で、よくある評論家特有の難しい哲学書のような文章ではない。

今の時代になってもまだなかなか現代美術というものは理解されにくいが(一部コミカルな物は注目されるが)、その原因に、その紹介する側が分かり易さより、評論家による自分自身のインテリジェンスの先んじているところがあって、それが混乱している大きな要因と考えられる。

でも高階秀爾氏の文章は、「理解しやすさ」を先行させ、ナビゲーターとしての役割をしっかり果たそうとしていて、むしろその姿勢にこそ、強いインテリジェンスを感じる。

(* 高階秀爾:美術評論家)

 

2004.2.17 【邪道】

邪道と言えば大仁田厚だが、ラーメンにライスをつけるのは邪道だと思う。
でも「半ライスつけますか?」と店の人が言うと、つい「じゃあ、お願いします」と言ってしまう。

水餃子のポン酢のたれにラー油を垂らすのは邪道かもしれない。せっかく水餃子だから、焼き餃子と同じ対応しては失礼だ。でもラー油を垂らしてしまう。だって辛いのが好きなんだもん。

辛いからと言っても、話題の牛丼には一味唐辛子は一切かけない。これをかけるのは邪道だ。紅生姜の辛みを混乱させてしまう。とても失礼なことだ。その代わりお新香(白菜漬)には沢山かける。これは王道だと思っている。

さて昨今、ラーメンの具に邪道と思われがちなものがある。
「焼き油揚げ」「お麩」「きざみ白菜」「ゆず」
でもこの4品、いずれも使い方次第でとっても美味しくなる。仮に邪道だとしても僕はとっても大好き。許す。
それとサッポロ一番塩ラーメンに生卵を入れて、最後ぐちゃぐちゃにしてすするのも好き。


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004.1.29 【青春映画】

「青春」というのはこっ恥ずかしい。
森田健作じゃないかぎり、「俺の青春時代にはさあ〜」なんて言う人もいなくなった。
「青春時代のま〜んな〜かで〜〜」
という森田公一とトップギャランの歌をカラオケで歌う人も珍しくなった。
今歌えば「いとしのエリー」以下である。

でもなぜここで「青春」かというと、レンタルビデオ屋で「愛と青春の旅立ち」と「さらば青春の光」を借りてきたからだ。
双方とも『今更』の映画で、今借りるのがとても恥ずかしい。「タイタニック」ほどである。
アダルトでもないのに、カウンターで差し出すのに顔を赤らめてしまった。

さて内容であるが、20年以上の間暖めてきた割には、心を動かすものではなかった。というよりも、
《ジェネレーション》としてのタイミングが悪いとこれほどつまらないものはない と思った。
さらに「さらば青春の光」=《モッズ》では、そのジェネレーションの不一致の他に、美意識としてなんか《違う》もの、
つまり《モッズ》や《パンク》など、イギリスの対アメリカ・フラストレーションみたいな《格好良さ》についていけなかった。

妙な表現だが、ロックには『極』;
[イギリス・パンク、モッズ]←→[矢沢永吉]
というのがあって、僕はその両端が苦手であることを再認識させられた。

僕は政治は嫌いだが、ロックの方はどちらかというとアメリカが好きで、この映画でもスクーターを乗っている奴らより、バイクを乗ってるものを応援していた。
そこでその乗り物だが、スクーターがイギリスの象徴、バイクはアメリカの象徴として描かれているが、
日本を舞台に「パパラ、パパラ」とhawkIIの暴走族単車に「氣志團」みたいな奴らとモッズが闘争するという映画はどうだろうか。
もしかしてVシネマあたりであったりするのかもしれないが。

 

2004.1.15 【芥川賞・直木賞】

芥川賞と直木賞が決まった。共にダブル授賞。芥川賞は19歳のナントカいう人と20歳のナントカいう人。それに直木賞は40歳のナントカいう人と38歳のナントカいう人。それぞれ調べれば名前も分かるが、名前をあげるのがもったいない。知りたければ勝手に調べればいい。

別に芥川賞も直木賞もとるつもりはないけれども、こういう低年齢化はなんとも悲しい。作家を本気で志していていて、中年齢や高年齢になった方々にとっては、こういう若いの人たちがとれば、やるせない気分になることは間違いない。

ちょうどこれに思い当たるのが、美術における「安井賞」。今となっては過去の賞ではあるが、一時期これが美術の芥川賞のように扱われていた。過去には宮崎進や田口安男など、確かに優れた人もいたが、ご承知のとおり無様に衰退を辿り、消滅する結果となった。

その衰退する原因ではないが、大きな転機となったのは福田美蘭の授賞であろう。彼女の作品はさておき、この人が最年少でとった時に確かに大きな歪みがあった。既にどの画家も安井賞を目標に掲げる時代ではなくなっていたが、センセーショナルにこの人が安井賞をとってから、大勢の画家たちは一気にやる気がうせた。

話を戻せば、選考委員;村上龍氏は、今回の芥川賞について「単純に優れた作品を選んだ」というが、そんな単純に優れた作品を選んでもいいのだろうか。
本来「芥川賞」を目指して、より文芸が発展する状況を考えなければいけないはずなのに、単純に作品の絶対的判断でいいのか。
一体それが文学界を見据えた選択と言えるのか。

しかも「ダブル授賞」って?
“選びきれなかった”ってことでしょ。
それとも気を遣って、若すぎるから“重すぎる芥川賞の加重”を2分して軽くしたつもりなのか?
芥川賞・直木賞もそろそろそっぽ向かれるよ。安井賞のように。

 

2004.1.5 【ラーメン事情】

僕はその性格柄、ラーメン好きと思われているが、本当はそれほどでもない。
時々気が向いて、1週間立て続けにランチがラーメンの時もあったが、そういうことは稀だ。なぜなら中落ち丼も好きだし、カツカレーも好きだし、麦とろ・牛たん定食も、カレイの煮付定食なんかも好きだからだ。それらを差し置いてラーメンだけに執着するのはもったいない。
その上金沢育ちの僕にとって、かにやぶりの生鮮食材に比較して、ラーメンなど、所詮気休めの造作物。低俗な食べ物だと心のどこかで思っている。

とはいうものの、実は「ラーメン通」としてはいささか出遅れた感があって、既に上手(うわて)がいっぱいいて、先を越されてしゃくだからというのが本当の理由である。

ところで昨今の首都圏は、おびただしいラーメン屋がひしめきあい、競争はますます激化している。それゆえこの時代他の分野にも当てはまることだが、ラーメン屋さんも生き残りに必死だ。
それに比較して、他の食材もあるせいか、競争の少ない我が故郷の金沢では、一定のチェーン店が支配するだけで、これまでラーメン屋は発展してこなかった。

ところが今回の正月に帰省したところ、いたるところに多くの新しいラーメン屋が見られる。特に都市開発から拡張している新市街には、いかにも“こだわってるような丸っぽい墨文字の看板”が多くなっているのだ。
せっかく日本海でとれるありがたい「こうばこ蟹」や「このわた」があるのに、ラーメン屋なんて必要なのかとも思ったりするが、やはり人間、時々ラーメンも食べたい。しかもここまで日本全体がラーメンブームが継続している以上、“○番ラーメン”だけではすまなくなっているのだろうか。

ただラーメンも文化ではあるが、ぜひとも金沢は金沢の文化と誇りをもって接して欲しい。
金沢は、それほど有名ではないが、実はそばもうどんもとても旨いところなのだから。

ところで六本木に「金沢ラーメン」という、金沢では見たことのないラーメン屋があったが、今でも健在なのだろうか。金沢との関連は怪しかったが、結構旨かった。

石川県内のラーメン屋

 

2003.12.25 【バタくさい顔】

平井堅は特にハーフだと言ってないけれども、どこか西洋的な顔立ちである。
このような彫りの深い西洋的な顔立ちを一般には「バタくさい」とか言われ、「しょうゆ顔」がもてはやされた時には、随分と小さい思いをしていた。しかし一時期古い臭いと言われたこの手の顔も、最近ではまた認められるようになった。

確かにこの「バタクサイ顔」は時代によってもてはやされる時と、そうじゃない時とがある。
ファッションは本質的に景気と密接な関係を持っていものだが、「顔」の流行も社会情勢によって小刻みになるのかもしれない。

以前「不況時には髭が流行る」と僕の父が言っていたが、1929年あたりとか戦後すぐには髭が流行ったらしい。
僕の育ってきた時期にはそんなに髭は流行らなかったが、ここ何年かは、街を見れば、汚い顎髭や不精髭だらけ。
同じように、顔にも「不況に関係する顔」というのがあって、人の顔を持ち出して言うのも失礼だが、今は平井堅みたいのが「不況顔」なのかもしれない。

ところで日本人の祖先は漢民族、モンゴル、朝鮮、ミクロネシア、アイヌ などの混血種と言われるが、最近ではこのような彫りの深い顔は「ペルシャ人」を源とする学説が有力なようだ。

よってペルシャを遠い祖先とも考えれるならば、中東の国々との関係も出てくるわけで、今年はイラク戦争などのアメリカの絡む中東の問題が大きなニュースだったが、これも民族系脈的には他人事ではないことになる。

テロや自衛隊派遣の問題が世間を揺るがすが、このペルシャ系顔の平井堅の甘い歌声でも聴いて、少しでも平和になればと願うばかりだ。

 

2003.12.20 【ユングの学説】

心理学において有名な二人がいる。ひとりはフロイトでもうひとりはユングである。
簡単に言ってしまえばフロイトは、最終的に「性欲が支配する」という学説。一方のユングは、人間共通の「無意識感覚」が関係しているというものらしい。二人は一時師弟関係だったものの、そこで対立し、心理学が2分されたという。

特に興味深いのはユングの「無意識感覚」。無意識にもっている潜在的共通感覚から、偶然同じような発想をしたり、同じ行動を発生させるということ。今僕はこのユングの学説がとても興味深い。
確かに人間には「個」である前に「種」であって、それがフロイト的「種の保存」の前に、もっと別の何かがあるような気がする。

ここで別のことで「物語には8つのパターンしかない」という話。
この説によれば古今東西、悲劇も喜劇もシェークスピアもスティーブン・キングも、実はこの8つの応用にしか過ぎないらしい。例えば「ターミネーター」も、つきつめていくと「ドラえもん」と共通のものが見えたり、設定や登場人物は違っても内容としては、限られた数種類のパターンしかないというもの。実はこのパターンが、先のユングのいう「潜在共通意識」に関係しているように思える。

いわば物語の中核にあるのは、人間の「種」としての潜在的な心理で、作者はその応用であり、所詮それに肉付けしたものであって、しかもそのパターンは考えた以上に数が少ない。
逆に言えば、「創造性」とは、自ら自発性のように見えて、実は「共通の心理」の中から掘りおこすものであって、それは考古学に似ている。

確かに考えてみたら、まっさらな意識で絵を描いているようで、何か眠っているものを考古学者のように掘り起こしていく作業の時がある。

 

2003.12.14 【バックを塗らない】

李禹煥(リー・ウファン)の画面は確かに緊張感がある。
李禹煥が李禹煥としての最大の価値は、「描く」という行為の極限までそぎ落とされた「筆」の圧力の“ま”である。
それはしばしアジア的な精神性として取り上げられる。
でも考えてみたら李禹煥の絵は*バックは塗られていない。生地の白い布(綿布)のままである。
(*“バック”という概念は暫定的であって、この場合、何かほどこしてあるその他の“空白の部分”を指す。)
どうしてだろう。
「油絵」ってバックを塗ってないと叱られそうなのに・・・。

---バックを塗らないのが主流?

特に李禹煥だけでなく最近の絵画はバックを塗らないのが主流である。
方向としては【厚塗りせず・ナイフは使わず・生地は出して】が鉄則みたいに。

それは多分、絵の具の塊として、ミニマライズされたもの、一時期の“時代”でもあった、いわゆる「ミニマルアート」的、あるいは「もの派」的な系譜をたどるものである。
しかしそれは「描く」システムを、評論家などがが芸術系脈的に言いやすい形として、なぞられているようにも映る。

正直「バックを塗らない方が楽」と思う。
わかっていてもわかってなくても、その方が今はなんとなく「現代美術的」に見えたり、東洋的に見えたり。
でも作品自体は、飾る「壁」というマットを考えれば(どこかアーキテテクチャルなことを考えれば)、どこか物足らない。
だってみんな多くは“布ばっかり見させられる”わけだから。

確かにあの油絵の具を使ってのナイフゴテゴテのバックは、上野の公募展ででもなければ、そろそろみんなにそっぽ向かれている。
でも 背後との状況を考えていけば、この《素地のまま》というのも、やはり問題である。

僕は絵画というものの《建築から発祥した歴史》を考えるならば、建築や状況を考えるのが名分だと思っている。
建築的な意味で絵画の位置を探るならば、それはたとえ意味あるものであっても、単なるファブリックに見えてしまってはいけないと思う。
無地のカーテンだって、なんか色くらい着いているものだ。
まして「絵」なんだから、もうちょっと色ついててもいいんじゃないか。



2003.12.3 【森美術館 ハピネス】

森美術館「ハピネス」展に行って来た。大学の同級生U君と男2人で。

キューレターの力の入れ具合は伝わったが、その善し悪しは誰も判断しようとしていない。
悲しいかなそんな全体の構成より、ぶちあたったおのおのの作品を見入るだけである。

強いて構成について言うならば、荒木経惟の作品は邪魔であった。
あんなところで“芸能人のじゃれ具合”を見ても、とても「ハピネス」とは感じられない。

とはいえ、各作品はやはり優れたものばかりである。
中でも気にかかったのはモネの「睡蓮」と丸山直文の作品。

まずモネの「睡蓮」。
およそ20世紀以降の油彩技法の基準となるのが“モネ的見方”であって、革命的作品も今では「なんでもない綺麗な絵」に見えるが、このオリジナルはやはり偉大である。
十数年ぶりになめるように見入ってしまった。(近づき過ぎて監視員に注意された)
でもかなり描き直しが目立って、少々絵の具の食いつきがよくなかった。★★★

次に丸山直文の作品。
現在現代美術の中で最も注目されているのは丸山直文であろう。
視点の持つ微妙なずれを簡素化されたタッチで映し出し、ある盲点なのに妙な叙情的な感覚。ゲルハルト・リヒターの系譜を持つと思うが、かなり高度に吟味された視点の力に、村上隆のエンターテイメントとしての曲芸とは対照的に、美術体系からの正確な伸展を感じる。
やられた。★★★★★

 

2003.11.30 【世界遺産の曲とティンパニ】

世界遺産という番組をよくみる。優れた番組だ。
カメラワークもさることながら、鳥山雄司の音楽がすばらしい。
この音楽の題名は「ソング・オブ・ライフ」というらしいが、これを車の中で聴きながら走ると、なんでもない田んぼが世界遺産に見えてくる。 ちょっとしたロケーションでもやたら大袈裟にみえてくるから嬉しい。

でもなぜこの曲がそんな感動的な脚色効果がをあるのだろうと考えたら、それにはある楽器があることに気づいた。
その楽器とはあの打楽器の“ティンパニ”である。

考えたら僕が好む曲;チャイコフスキー[序曲1812年][スラブ行進曲]とかは、盛り上がるところに必ずティンパニが使われる。
もともと行進曲や、交響曲、序曲には欠かせないものだが、大袈裟なものに、この“ティンパニ”がとても効果的だ。

例えば『ツァラトゥストラはかく語りき』のように、
「ボン・バン・ボン・バン」
と、おどろおどろしくも荘厳なイメージを作り出したり、
また「料理の鉄人」の音楽も、このティンパニの効果で、勇者のように演出している。

ということで、自分を勢いづけるため、家にティンパニをひとつくらいもっててもいいんじゃないか。
ちょっとした曲でも、ボンボンやって“大物”になったような気になれるかもしれない。
一家に一台ティンパニ!
でもうちは狭いから、広いところに引っ越したらにしよう。

 

2003.11.24 【プチ・コスプレとしての巨人の帽子】

前回「巨人の帽子はいつかぶるのか」という疑問があったが、よく考えてみたら用途があるように思えてきた。
それは「プチ・コスプレ」である。
巨人の帽子をかぶることによって密かに巨人の選手になることができる。

例えば室内で鏡に向かって、桑田投手の真似。

お祈りするようにボールを見つめて、セットポジション。
帽子のつばをさわってサインを送る。
2アウト2・3塁、フルカウント、1打逆転・・・・。
最初顔を横に振り、ようやくうなずく。
ピッチャー桑田投げた〜
外角ストレート空振り〜!
立浪三振!
桑田思わず小さなガッツポーズ!

ってな具合。

ここで「衣類」というものが、対人(たいひと)にあるだけでなく、内に向かう場合もあることを気づいた。
特に帽子は気分を演出という意味で比較的安価で、自己満足という領域としてとても手軽なものかもしれない。
「帽子」をファッション性という一義的な価値観だけでみていた自分を深く反省したのだった。

ところで、何度も言うが僕は巨人ファンではない。
そもそもプロ野球は巨人ファンかそうでないかで決まる。
たいてい素直な人は巨人ファンで、ひねくれ者はアンチ、素直でないひねくれ者の巨人ファンは、おおかた右翼である。


2003.10.30 【巨人の帽子】

週2回ほど東京ドームのそばを通る。後楽園駅から水道橋にかけて東京ドームシティと呼ばれるところだ。ここは床がタイルなので、雨の日は滑りやすく、よくこけている。看板に「滑ります」というのがでていても、やっぱりこけてる。気の毒に。

天気がよければここはいつもいろんな地方からくるカップルやちびっこたちで賑やかだ。そんな「おのぼりさん」たちを眺めるのも嫌いではない。特に楽しそうなカップルはこちらも幸せになる。(ほんとに)

そしてここにはお土産やさんがある。
今年は特に阪神グッズや、またイチローや松井の大リーググッズが目立っているが、やはりそこは東京ドーム。巨人軍の選手たちのグッズが中心だ。
中でもどうしても気になるのが「巨人の帽子」。
いつも思うのだが、この帽子を一体いつかぶるのだろう。
確かにドームでの試合観戦するときや家で密かに応援するときにその気分で盛り上がる。しかし最近町中でこの帽子をかぶっている人を見たことがあるだろうか。

そもそも野球帽はその機能性の範囲は広く、日差しの強い時は勿論、キャンプの時や芸能人で身を隠したい時、またコンビニ強盗なんかにも利用している人が多い。たいていは「h」と入ったDJ-Hondaや、ナイキのロゴのはいったもの、アウトドアメーカーのロゴなどである。でも 同じ野球チームでもメジャーのヤンキースの帽子であれば、松井選手が行く前から多く街で見かけていた。
ではなぜそのヤンキースの帽子はかぶれて、巨人の帽子はかぶれないのだろうか。

仮に「巨人」を「中島みゆき」と仮定しよう。
中島みゆきは昨年紅白にも出たすでに国民的なシンガーソングライターだ。確かに多くの人に支持されてはいるが、たとえファンだからといって、どこでもそれを聴きたいわけではない。おしゃれなバーに入って、いい雰囲気になったときに「うらみ〜〜ます」ときこえたらどうだろう。鋭く直接的なその歌詞に、動揺してしまうのは間違いない。
同じように、デートの日に「巨人軍の帽子」をかぶってきたら・・・。
いくら相手が「巨人軍」ファンに理解があったとしても、引かれてしまうことは免れない。

やはり素敵なバーには雰囲気だけの意味が分からない外国語の歌詞の方がいい。そして帽子も同様「思い入れ」の強いものより、意味が不鮮明の方がいいわけだ。


まだ少年らしさの残るBoyz II Men。
この野球帽が「巨人の帽子」だったら、かなり意味合いが違ってくる。

 

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