sorry,now Japanese only

最初にこのページについて

僕はこのページの中で作品を含め、自分を6項目のコンテンツでの紹介しようとしています。そのコンテンツの内容は変動的で、いつも変わります。 変更時はデザインに差し支えないよう工夫してお知らせします。

以下六角形に至ったこと

【自画像〜六角形の視野】

画家がよく自画像を描くが、そもそもなぜ自画像を描くのかと思い分析すると、@自己アピールA技術的演習B自己分析Cナルシズム等がある。画家はいいも悪いも自己中心的なものからが多く、そうでなくとも,画家は自己と向き合う辛さは避けられないのに,自画像はそれが全面に出てくるから厄介だ。ゴッホの自画像は伝説的に風化しているので今は大丈夫だが,友人の自画像は「あげるよ」と言われても貰いたくない。そこには「念」という灰汁があり、それを適切な処理を行わないままでいると、純粋に美術品としての完成度に乏しい。でも自画像の構造はとても興味深く、その他にももっと違うかみ砕き方や展開の方法はないものか、考えてみた。

多くの自画像は顔が中心で、まずこの顔という因子を記号化することから始めた。 1993年の「分母のある顔」では,数学的なある試みを行った。それは「分数」という様式で、顔を分子にみたて、分母に数値や文字などを配し、顔のもつ記号的因子を引き出そうというもの。それは大きく2つの項目に別れていて、ひとつは物理的に時間を分母、即ち予め時間を設定し、その時間内にできるだけ多くの顔を描いた。要素として時間の切迫感における瞬時の顔の表出というのが特徴。(*1)(制作中のビデオを描かれた数十枚の顔と併置)。もう一つは記憶に残る著名な顔に、その性質のきっかけとなるキーワードを分母にそえるというもの(*2)。いずれも顔が「表示される1マーク」に過ぎないことへの違う地点からのアプローチだった。

 

*1)Gene Art Space,Saitama 1993

 

 

*2)faces  mixed media on japanese paper

 

次に自画像解釈の応用があった。95年の「亀とめがねと黒い花」という展覧会では、例のオウム事件を題材に、そのテーマをそれぞれ[亀]-秩序・理性・永続、[めがね]-マスメディア、[黒い花]-疑念とイメージ化した。特に取り上げたいのは亀のイメージで、亀が持つ古来からの神聖について導いたものだったが、やはり自分の名前のもつ亀と交った。それはベラスケスの「ラス・メニーナス」の中のベラスケス自身のように、不思議な自分の自画像がそこにあった。 そこでは自分の顔と同等に、名前から引用できるモチーフも、記号体として成立する十分な要素と気づき、さらにそれはほぼ遺伝子的支配と同じ運命論で、顔を描くのも、亀を描くのも、また遺伝子を描くことも、自画像を描くのと同じ図式が成り立つと考えた。

遺伝子の自画像
acryic on paper
1995
 

 

でも大事なことは、さらに分解してその構造を知り、さらにまたそれを再構築すること、おそらくそれは芸術家も科学者と同様に思う。僕はまずその亀という要素のさらに単純化をし、六角形に凝縮化する。この単純化の方法は、亀甲印というもので、トラディショナルな手法を行った。やはり亀とくれば六角形。それは江戸時代から決まっていることで、わざわざ五角形や八角形にすることはない。で、そこまではスムーズに来た。でももっとさらにその短縮形を展開しなければならない。そこからが芸術家のもっと大事なところ。
あるバリエーションを考える中、六角形の視野というのを考えた。六角を見るのでなく、逆にその六角形から覗く世界。任意の限定された六角による区画の世界。いわば逆説的、いわば地動説、もっと言えばコペルニクス的展開。六角形の、その区画された枠の提示も、ある種自画像であるいう論理を強引に成立させた。
そこで前に戻ってベラスケス「ラス・メニーナス」の解釈。「あの絵に出てくるベラスケスは何を見ているか」という疑問。その不可思議性にロマンを抱く人も多いが、その答えのひとつにあの<ベラスケスは現代の我々を見ている>というのがある。
それに対し、現代にいきる僕はひとつの回答ができた。

自画像から見てあげること。

"Las Meninas"VELASQUEZ Diego 1656 Museo del Prado,Madrid